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2009-10

映画 仏陀再誕 感想レビュー(8) 子安仏陀の説法 その2 怒濤の津波とテレビ局 

 【すみません、先ほどアップした際に、ここでの仏陀の説法の全文が抜けていました。アップし直させていただきます。】

 さて、映画もここからは急展開。ラストシーンに向けて、大きな宗教バトルのエピソードが二つ、どかんどかんと配置されている。
 (このエピソード配分も申し分ない。映画のストーリーのプロポーションがよい、とでも言おうか)
 どちらもかなりハイレベルなCG(アメリカのスタッフ一同の苦心作だ!)を駆使したできばえとなっているのでお見逃し無きよう。
さあ、まずは恐怖の津波パニックである。ここは文句なく面白い。

『講演会から上機嫌で帰ってくるヒロイン。
 自宅前にはマスコミの報道陣。
 女優さんの発案で、ヒロインはひとまずテレビ局に向かい、記者会見をすることに』

ここで出てくるテレビ局のディレクターがいかにもそれらしくて大笑いした。
 派手っぽいシャツ着てモニターの前で台本持って、現場の部下達には怒鳴りまくり、一転して女優さんには「マぁーリさぁーん、すいません!」と猫なで声っぽく手を合わせるというチャラ男(ちゃらお)っぷりがいい。
 この場に限らず、映画全体で、端役の声優さんがものすごく上手い。

 『迎えに来た茶髪の兄ちゃんの車に乗り、車の中で話し合う二人。
 二人はわだかまりが解けてもとのサヤにほとんどもどった様子。
 いいムードになったところで、弟が後ろでカメラを構えているのに気づき、我に返る。』

 テレビ局へ向かう彼氏の車の中で話し合う若い二人。首都高らしき場所である。

 『今の世の中って、変だろ。
 みんな、このままじゃいけないと思っているのに、どう生きていいのかわからない。』

 ……この二文、小生個人としてこの映画のベスト台詞賞である。
 というのは、この二時間の映画について、台詞的に言えば、ほとんどがオーソドックスで、想像の範疇にある台詞まわしが使われているのだが(それが悪いというのではない。むしろ、この映画はそれで成功している)、この二文だけは違ったからである。
 素直に、この台詞はしみた。
 若い人だけじゃないんだよね、この感じ。
 書こうとして書けるものではない気がする。茶髪の兄さんのこの台詞は、そのまま等身大の二十一歳の宏洋さんの素直な真情の吐露だったのではないかと感じられて、「うん、そうだね、そう思うよ」と、こちらも素直に返事をしたくなった。
 これは不思議なのだが、なぜか、フィクションの中に本音とか実際の体験が出てくると、お客はまことに鋭いカンで、証拠などないのに、それをはっきり悟ってしまうことがある。
 予告編を見たときに、伴侶が「この茶髪の子が、宏洋さんの分身かもね」といっていたが、その通りなのかな、と強く思わされるシーンだ。

 ところで、作劇をする時に、作り手には、自分を投影したキャラクターを入れるタイプと、入れないタイプがある。
 実は、前々から、幸福の科学映画は前者のような感じがしていた。
 誰が誰に投影されているかというと、これまでの映画は、制作総指揮の大川総裁の人柄が、主要キャラクターに投影されているのではないかと思うのだ。
 その結果どうなったかというと、主要人物は、クリーンで優等生で「できすぎ君」、いってみれば、昭和五十年代のアニメのヒーロー、宇宙戦艦大和の主人公の古代進とか、昔のNHKアニメのキャプテン・フューチャーを思い出させるような、かなり優等生な主人公になっていた。
 作劇というのは意外と作者を丸裸にしてしまうものなので、制作総指揮の大川総裁という人が、素でそういう人柄なのだと思う。
 これはちょっと凄いことであって、こういう人が現実にいたら、個人としてつきあっても気持ちが良いだろうし、上司にするのは理想的な人物だ。宗教家としての総裁の信用を裏打ちしている証拠の一つだと思う。マスコミがいくら探しても悪い噂が書けないわけである。
 だが、作劇として、そういう主人公をもってくると、「うーん」という感じになる。
 感情移入がしづらいのだ。
 作者が優等生であっても、観客はとうてい優等生の水準には遠くおよばないし、そもそも今のアニメから見ると、いささか時流に合わない。
 一作目のヘルメスを見たときから、「誰かそこのあたりを解決出来るスタッフがいればいいのになあ」と思っていたが、なんと総裁のご子息がきちんと気付いて、そこを崩したシナリオを組んだわけだ。
 今回の映画が、以前の幸福の科学映画に比べて、ずっと我々の感覚に近い映画に仕上がっているのはそのあたりに理由があるように思う。
 幸福の科学の理事に若い人を抜擢する大川総裁の柔軟さが、この映画では二十一歳の初シナリオにすべてまかせたという大胆な策をとったわけだが、それが完全に吉と出た。

 さて、二人を乗せた車の窓の外では、首都圏の摩天楼群が流れていく。この摩天楼の背景美術は全編にわたってひじょうに良くできていて丁寧に描かれているので、一つの見所だろう。

 そして、シーンの最後に、弟の出現で邪魔が入るのが良い。
 弟が車に乗り込むシーンをカットし、二人を映す角度を工夫することによって、弟の存在をお客にまで全く失念させ、ヒロイン達とおなじサプライズをお客が覚えるように演出したのだ。ちょっとしたワザである。
 おかげで、いい雰囲気を邪魔されて、焦った茶髪の兄さんが、がつんがつんエンストを起こしながら走っていく車の背を映すまでの部分、飽きさせない。
 本当につなぎというか、細かなシーンのシナリオが上手いな。

 ……しかし、彼氏と良い雰囲気になるたびに、いちいち背後を気にしなければならない弟の存在というのは、面白いですな。しかもそれが嫌みなく描かれていて、この弟くんが、物語全体を明るく若くテンポよくしている感じがする。
 
『一方、テレビ局には荒井氏たちが乗り込み、日本中のテレビジャックをして、「これから十分後に津波がおそってきます」とガセ情報を流し、幻術で日本中を支配することに成功する。』

 テレビ局はNBKという国営放送。
 すでにあちこちのブログで言われているらしいが「公共放送 N●K」を彷彿とさせてしまって吹く。
 そういえば、この「国営放送」と「公営放送」だけでなく、悪の首魁が、某団体の某トップに似ていると週刊誌などにまで書かれているそうである。
 しかし、小生は少し前に最終回を迎えた少年ジャンプの連載漫画「魔神探偵脳噛ネウロ」で、S学会のトップと同じ顔をした悪役が出てきたり、イエスさまをそのまま悪魔にしたような極悪なラスボスの印象が強く残っていたため、あまり似ていると思わなかった。
 また操念会は三つ以上の団体のイメージが重なっているように思われる。
 一つめは週刊誌に書かれた件の団体。これは「信仰した人に阿修羅霊がつく」点がそうかな、と。もう一つは、これも有名な、火祭とかが一時期テレビ中継されていた某仏教団体。トップはやはり仏陀の再来といっているし、著書がなんとなく荒井氏の言説に近い。さらに、例のテロを起こした真理教。
 その辺もふまえてみると面白いのではないかと思う。 

 さあ、ここから映画はさらにスピーディーに話が進んでいく。
 最初信じない一般ピープルが、すっかり津波の恐怖におびえるあたりまでの導入も最高。
 謎の増水の時にかかるピアノとストリングスの音楽がなかなか、少女革命ウテナのBGMとかをちょっと思わせて、気に入った。。
 日本中の家庭のお茶の間、街角、日本人形が飾ってある家のおやじさんなど、細かく映していて見ていても楽しい。チャンネルに一瞬移ったロボットは、「永遠の法」に出てきたもののようである。
 ここは文句なく、時計を忘れて魅入ってしまった。
 しかし、ここでのパートで、難をあげろといったら、やはり最大の難点があることは否めない。
 それは、UFOの時と同じ、見ているお客に「結局、この津波がどこまで幻術で、どこまで本当に津波が来たシーンなのかわからない」というところだろう。
 お客さんからもそういう意見が出ていたようである。
 しかしこれはわりと簡単に説明がつく。
 小生の出した答えは、「すべて幻術」。
  じっさい、最後に津波が、仏陀の光で一瞬で消えてしまうが、そのとき津波は関東に上陸していたように見える。
 あのシーンでも、津波が消えた後の町には、実際にはなんの被害もなかった訳なので、この津波はすべて幻術、ということではないかと思うのだ。
 ということは、つまりNBKで出たニュースの映像……津波予測のお天気映像から『謎の増水」の映像、アナウンサーに渡された原稿、さらには、暴風雨の中でアナウンサーが「犬吠埼に来ています。巨大な津波が……」という現場中継までが、すべて操念会のあらかじめ用意していた、良くできたフィクション映像。(犬吠埼の現場中継の直後のコマヤマさんの台詞なんかも計算してあるという感じだった)
 しかし、それを見た国民は一発で信じてしまう。
 あとは荒井氏の思うままである。
 一度術に落ちれば、スタジオにあるはずのない浸水が見えるわ、街には津波のビジョンが見えるわで、もう日本中大騒ぎ。

 ……ああー、あるある。こういうこと現実にありそうだなと小生は思った。
 なにせ、この国はマスコミを信仰していて、巨額な赤字予算と失業者を確約する民主党を「マスコミが叩かない」という理由で7割以上の人が支持している国なのだ。
 テレビさえ押さえてしまえば、この国の人々など、だますのは簡単、という皮肉でもある。

 『そこへかけつけたヒロイン。
 テレビ局の中に数多くいる操念会スタッフが彼らの前に立ちはだかる。
 彼らと乱闘になる茶髪の兄ちゃん&女優さん。』

 「あっ、木村真理だ」「はいはーい」のやりとりが軽妙でにやけてしまった。三石さんの芸達者な部分で、一瞬アドリブかと思ったぐらいだ。
 そして、もはやあちこちにいる操念会のスパイ。
 流れるようなアクションシーン。
 (ここでの三石さんのエヴァのミサトさん声+画面の女優さんの立ち回りに、「葛城三佐強いっ!」と、快哉をあげたのは小生だけではないはず)
 方向がわからなくなったヒロイン姉弟の前に、例の老婆が現れて導いてくれる。正しいことをしている人には、心ある人が必ず見ていて、事情がわからなくても力になってくれるのだよと言うお話。弟の深いお辞儀がまたもかわいらしい。

 いっぽう、画面に映る荒井氏。
 強烈な念のために、デジタル放送がびりびりとぶれているのがいい演出である。

 (なおここで、「テレビ局と一般のパニックと超能力者とスタジオの混乱」という組み合わせに、小生、「ギャグマンガ日和」という短編アニメの迷作「地球最後の日」を思い出して一人で受けていたことは、とうてい人には話せません。(あんなシーンが入っていたらこの映画はアニメファンから神認定されてしまう) )

 『ヒロインと弟くんは、女優さんが空野氏から電話で聞いたメッセージを書いたメモを持って、スタジオへ走る。
 スタジオに着いたヒロインは、ディレクターの機転で、本番生放送でそのメモを読むことになるが、いざ本番、メモをひらいてみると、メモを握りしめていた弟の手汗で、メッセージはにじんで読めなくなっている。』

 
 ……ここ! ここは文句なし百点満点の百二十点!
 この映画、ここに来るまで、けっこうお笑いのシーンはすべっているのだが、ここでは間違いなく客席中からふく声が聞こえた。
 ここで出てくる手法は、作劇で結構、大事なポイントといわれる方法。
 つまり、物語においては、「主人公達にとってうまくいかない方へ、運の悪い方へ」と、事が起こり、絶体絶命にまで追い詰められるというのが、最近の作劇の手法。(前半でも、茶髪の兄ちゃんがヒロインをとめようとするのに、電話が入れ違いになって通じない、とかがそれに該当する)
 そして、そこから一気に大逆転、という状況を見事に作っていくのが、作り手の腕でありワザだといわれている。
 この映画では、後半、ちょっと「ヒロインにとって都合良く運ぶシーン」が多かった気がするので、こういう『うまくいかないシーン』があると「おっ、わかってるな」という気がしてうれしかった。この「うまくいかないシーン」をもう少しまぜて(あるいはその比率を逆転させて)くれると、もっと見やすくなって嬉しかったかな。

 『焦るヒロイン、始まる本番、
 そこへ霊体で現れた空野氏がヒロインにメッセージを伝え、途中からヒロインの体に入って日本中にメッセージを放つ。』

 もう一つ、小生が受けたシーンは、本番を止めようとして荒井氏の信者さん達がスタジオになだれこんでくるところを、チャラ男プロデューサーの
 「ホンバン中だ」
 の一言でぴたっと止まってしまう。
 ここには個人的に声を出さずに大爆笑。
 伴侶も「あれこそ薫習(くんじゅう……仏教用語で魂の奥にまでしみこんでしまっていること)っていうんだな」と受けていた。邪教の信仰も「ホンバン」の一声には勝てないのである。このあたり、宗教映画でありながら、宗教の影響力を絶対視していないところがいい。

 そして始まる全国中継。「謎の美少女」の生放送となる。
 ここで、「美少女の「美」はよけいだろ」という台詞を最近のアニメ(『ニードレス』だったか?)から引いてきてつぶやいたアニメファンもいることだろうが、ここは、ぽーっとした本人と、マスコミの虚像のギャップを楽しむ部分なのである。(本人がもう少しぼーっとした感じで、ギャップをはっきりすると面白かった。)

 一人座して念を送る空野氏の部屋は、紀尾井町ビルか、オリンピックビルか?
 (どちらも初期の頃に幸福の科学の本部があった場所である。)

 霊体で現れ、ヒロインに入り込んだ子安仏陀の説法、全文は以下の通り。

『この幻影を消すには、心を静めることです』
『縁生の弟子達よ。
 まず「恐れ」というものをなくしなさい。
 自分が自分でないような、魔に踊らされ、魔に自由にされるような、そんな自分であると思ってはならない。
 自分は必ず自分の心を統御できると思わなければならない。
 心を静めなさい。
 幻影は必ず消え去ります。』

 ここでの空野氏の説法は、仏教に出てくる「蛇縄麻(だじょうま)の譬え」を思わせる。
 「心は自分でコントロールでき、鎮めることもできる」のである。これはちょっと言われてみないと気付かない。
 さらに、「心を静めることでパニックから回避し、最悪の事態を防ぐことができる」という、偉大な効果があらわれる。

 なんだ、たったそれだけなのか、と思う声もありましょうが、ナルニア国物語の三巻でも、似たようなパターンで闇の中の航海を切り抜けた話があり、(小生、ナルニア国物語の原作は、近年世界に出現した中で、「指輪物語」を越える最高の宗教文学だと思っている ので)、どの宗教でもこの大切さというのは語られているのだ、とわかる。
 人間の本質は霊で、霊界というのは思念で構成されている世界であるため、霊的に見ると心を静めさえすれば世界のノイズが消えていく、と言うことではないかと思う。

 しかし、いきなり少女の口から『縁生の弟子達よ……』とやったのでは、彼女がまさしく再誕の仏陀みたいですな。
 これが次のシーンで「救世主」と騒がれるところにつながっていくわけである。
 
『人々はパニックから解放され、荒井氏のもくろみは失敗する。』

 スクリーンの中では、空野氏の呼びかけに応じる人たちの中に、縁日にいた愉快なTシャツの老夫婦とか、「絶対に信じないぞ」という顔で講演会に来ていた紫のシャツの人とか、いろんな面子が出てきて楽しい。
 津波が消えるCGはかなり難しい部類に入るとのこと。
 確かに圧巻だ。

 『計画が失敗して、側近から見放され、一点、マスコミの寵児から警察に負われる身となった荒井氏。
 ラスボスらしき悪魔の声においつめられて、荒井氏は最後の計画を実行することになる。』

 うそ、千葉繁さんの出番はこれで終わりですか?
 ああー、倒壊するビルの下敷きになって、チバシゲさんお得意のはっちゃけたアドリブの悲鳴とか聞かせてくれるかなあと思ったのに、残念だ。

 しかし、二回失敗すると側近も見限るんだなあ。というか、いままで動いていたプロジェクトは、全部、荒井氏ではなく、コマヤマさんの配下だった訳か。
 荒井氏という宗教者をダシにうまいこと運ぼうとして、失敗したらさっさと捨てるあたり、コマヤマさんが一番のワルだったわけですな。

 そして、千葉さんとあたかも交代したように、ここから出てくる声の人が、三木眞一郎さん。声優さんとしてはやや遅咲きだった印象がある思うが、アニメを見る人にとってはなじみ深い声であり、実に名脇役、かつ結構二枚目な主役もこなしている。
 この映画でも、その声がまことに役にはまって、見事なラスボスの悪役美形っぷりであった。

 さあ、いよいよ映画は最後の大ヤマ、東京ドームでの宗教バトルに突入する。
 

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