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映画 仏陀再誕 感想レビュー(5)子安さん登場、「悪霊との対話」
- 2009-10-23 (金)
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鈴木さん、わふわふさん、ほか皆さん、ご声援有難うございます。フルマラソンで、沿道で旗をふってくださっているのを見て元気になる走者の気持ちを味わう小生でありました。
さて、映画はいよいよ子安さんの登場!
『病室に入ってくる子安、もとい、空野氏。
礼儀正しく、淡々として、苦しむ弟クンを見るなり「可哀想に……」と言う。
空野氏はベッドに行くや、弟クンの悪霊を追い払い、アシスタントにつれてきた、金髪の外人のお兄さんの体に悪霊を入れて対話し、追い払う』
外人さんがキャップをとると五分刈りみたいな坊主頭でびっくりした。いかにも僧侶っぽい。金髪で頭をまるめているというミスマッチが成功している。
静かな医療用モニターの音のみの病室で、気温が上昇していって、光がさして……という期待感をあおる演出がたまらない。
そして、悪霊との対話が始まる。
悪霊役の声優さんもかなりうまいですな。
この対話は映画の中でもかなり面白い部分。
悪霊が入ることによる人相のかわりっぷりと対話の内容は楽しめる。岩波文庫の「ブッダ 悪魔との対話」などを思い出した。
なお、空野氏がここでしていることというのは悪霊や天使を、霊媒役の人に入れて対話し、話を聞いたり成仏させたりする荒技である。
幸福の科学でも、ものすごく初期の頃に数回やったビデオ・録音テープが残っている。
これ、確か、悪霊を入れた霊媒は翌日体調不良でかなりガタガタになると聞いている。金髪坊主くん、まことにご愁傷様である。
まあ、空野氏ぐらい実力のある宗教家なら、いちいち霊媒に入れなくても対話が出来るはずだが、これはご家族に対して何が起きているか示してみせるためと、はっきり弟クンから悪霊をおいだすため、といったところだろうか。
悪霊に説く説教の内容は、人間は、地獄に堕ちても、「貪・瞋・痴」の心の三毒を抜き去ることで地獄から抜けることが出来る、ということ。
この三毒は、すぐあとの長時間説法でじっくり説き込むことになる。
さらに、次の
『いっけん去ったと見える悪霊が襲いかかる』 シーンは傑作。
いったん悪霊が「ここはひとまずひかせてもらうぜ……」と居なくなって、金髪坊主くんが「行ったみたいですよ」と言う時の顔色は、悪霊を入れた時と同様に悪いまま、つまりまだ悪霊が「ふり」をしている、という点を示しているところなど、なかなか心憎い。
それにしても、ここだけでなく、後半のクライマックスシーンでも、改心したと油断させてドカンと反撃に出るというシーンが繰り返し使われるのを見ると、映画の霊現象のアドバイザーであろう大川総裁が、いかにタチの悪い悪霊ばかり相手にしてきているのだろうか、と思わされる。
ただ、空野氏が使っているのは、幸福の科学の病気平癒に使われる「変わり九字」のようなもの。
あれであんなに悪霊がぶっ飛ぶの? と、会員さんは疑問であろう。ここで、魔封じの修法を使わないのは、最後の最後まで必殺技として取っておくための作劇上の演出かな。
いや、仏陀クラスだと、たんに治癒技を使っただけで悪霊までぶっ飛ばせるのかもしれませんが。
ところで、思い切り壁にめり込むシーンに、伴侶から「あれ、いくらなんでも背骨折れない? アニメでのお約束なの?」と聞かれた。
小生はなにげにアニメや少林サッカーなどの特撮ものでこういうシーンを見慣れていたし、悪霊とのやりとりなど実に上手くできていたので、ここはちょっと違和感を持ちつつも、「おおう、壁の修理費はお父さん持ちだな」と思う程度のつっこみしか入れられませんでした。
まあ、ここは悪霊が入っているとはんぱない力が出る、つまり「悪霊補正」みたいなものだということで。
『悪霊が去っていった後の病室。
顔の腫れが一瞬でひき、目を覚まして「お腹すいた……」という弟クンがかわいい。
いっぽう、医者のお父さんと話す空野氏。
お父さんはガンだった。空野氏に「死ぬのが怖かった」と告白。唯物思考を改めるお父さん』
さあ、難しいシーンが来た。
宗教的な映画での最大の課題は、やはり宗教者に救われていく人々を見て、いかに客席をも感動に巻き込むか、ということではないかと思う。
ましてや、現実で「説教を聞いて改心する」、と言う純情な大人達があまり見あたらないために、このあたりのシナリオは至難を極めるのではないかという気がする。
それをふまえて考えると、ここの説得は
「え、お父さん、これでもう人生観を改めちゃったの?」
という感がなくもない。
じつは、この会話は、途中まではすごくよいのだが、途中で一カ所だけ、説明不足に聞こえる点があって会話の流れが途切れているのだ。
説得の流れを見てみよう。
まず、「死にたくない。死ぬのが怖いんだ」と声を震わせるお父さんに対して、
空野氏は、
「信じている人にとっても信じていない人にとっても、死後の世界はある」
「病気を治すにはまず心を正すこと」
「本当に人を救いたいなら人間とは何かを知らなければならない」
「この世でどんなに優秀でもあの世を知らなければ無力」
と説く。
……ここまでのシナリオは自然に流れている。
ところが、この合間に入る、
「自分を許してあげなさい」
「あなたは自分の人生を悔いていますね。自分の情けなさを身にしみて感じている」
というのがちょっと不自然。
これは、じつは、お父さんが暗い病院で
「息子の病気を治せないのか。私は、こんなものか」
といっているシーンとつながっているのである。
この、 「息子の病気を治せなかったことについて、お父さんがかなり深く無力感に悩まされている」部分が、十分に伝わっていないと、「え、なんで? お父さん、どこでそんなに自分を責めていたっけ?」と、お客は置いて行かれてついていけなくなってしまう。
それに、癌であと半年と言うことは、息子の件以前にもいろいろな悩みがあったのではなかろうか。
このあたり、お父さんが自分の人生悔いるまで悩んでいたことを、お客に共感させてくれていると、空野氏の説法が素直に最後まで耳に入ってきたはずである。ちょっと惜しかった。
テンポ良くここまで引っ張られすぎてきた反作用かな、とも思う。
ここさえクリアできれば、あとは、
「失敗や挫折や不幸は魂を光らせるためにある」 「あなたは真にいま、魂を鍛えているのだ」 から、
「やり直すことが出来るでしょうか」というお父さんの問いに、
「やり直しのきかない人生など、ありませんよ」
と説く、この会話のラストまで、綺麗な流れになってこのシーンを終えられる。
子安さんの声も、ところどころ真情が籠もっている。
『病院を出て行く一行を追いかけ、呼び止めて、夕焼けの中で礼をいうヒロイン。
「私は必要とされている人がいればどこにでもいるよ」という、さわやかな空野氏。
そして、いきなり霊視がきくようになって苦しむヒロインに、
「いま君に見えているのが世界の本当の姿」
「きっと君には使命があるんだよ。真実を世に伝えるという大事な使命が」と語る』
空野氏の、さわやかで軽いこの感じは、教団が初期の頃の印象を受ける。大団体になるとなかなか、必要とされても動けない。
(この、空野氏の「さわやかさ・軽やかさ」は、講演会のシーンで決定的になる。)
ただ、ここでの会話の難は、
単に「霊視がきくようになったんですぅ」といってくる女の子に、「それは使命があるからじゃないのかな」という空野氏の言葉が、説得力が弱いということ。
現実として、「霊視がきくようになった人は、みんながみんな、真実を伝える使命があるか?」 というと、それはちょっと疑問。
現実には、霊が見え、霊と対話できるようになったとしても、自らの心のコントロールに失敗すれば、すぐに悪霊に憑依・支配された状態となり、結果、精神病院に通院・入院というパターンが多いと思う。
(まあ、うまくそこをかわして「拝み屋」や「教祖」になる人たちもいるけれども)
だから、「霊が見える」だけで、「特別な使命がある」というのは、ちょっと無理があるように感じられるし、若い人の中にはかなり勘違いをする人が出てくる。
……ので、ここでは、回答の前に一瞬、ヒロインの周りにちょっとした特別な光が舞うのを空野氏が見る、という演出があっても良かったかなという気がする。
「いや、これは普通の女の子が頑張ってお役に立ったというストーリーなのだ」という意見もあり、そういう筋立てに解釈しても良いのだが、やはりどう考えてもヒロインはラストで、悪魔の恫喝に抗って、救世主の到来を告げる、聖書の「バプテスマのヨハネ」の役割を演じているように見えるので、わずかでも特別なオーラが出て居るぐらいはあったほうが自然かな、と。
……しかし、同級生が腹の中で黒いこと言っていたり、病院は黒い人々でうようよしていたり……実際、あんなのが「世界の本当の姿」なわけだから、ほんと、いやになっちゃいますね。
『一方で、操念会の会議。
どうにも悪巧みしている悪の会議。
荒井氏は、「力と恐怖で統制」「自分がかわいいのだ」……と、悪役げなことをぶつぶつつぶやきながら、秘密の部屋らしき扉を開ける。
そのモニターに映っているのは、円盤めいたもの。』
千葉繁さん、キター! とガッツポーズの小生。
うわ、本当にチバシゲさんだよ! 声優さん豪華だなあ。普通の「悪い人」の役だったりするが、声を聞けただけで再びにんまりしてしまった。
それにしても、操念会の本部の会議室って、本当に悪の組織の会議って言う感じですね。
前に、雑誌・ファンロードで、某真理教の本部の奥の院を悪の組織にたとえたイラスト投稿があったが、あんな感じを思い出させる。
なんとも暗い暗い廊下を歩いてゆく荒井氏。影が何本か通っていく。本当、暗い教団本部だな。
ここで気になる点があるとしたら、じつは、「荒井氏の生い立ちについて入れるタイミングはこのあたりが絶好だった」、というところ。
「ヘルメス 愛は風の如く」の時から感じたのだが、どうにも、幸福の科学映画は悪役の掘り下げが弱い。
宗教者を書き込みたいのだということはわかるのだが、悪役を書き込まないので、今ひとつ、現代劇から遠い印象を与えてしまうのだ。
もっとも、「悪は悪として悪行のみを描き、最後でその存在ごと抹殺する」という物語は、シュタイナー教育で、小さな子供にする物語として推奨されている。
(だからシュタイナー教育で昔話を聞かせるときは悪役の死も、そのままに伝えるようである。これは昔話を人類に共通する「心理劇」としてとらえ、物語の最後で各人の心における「悪の消滅」を印象づけるためではないかと、小生は思う。)
しかし、この物語では、敵役の荒井氏は最後に改心してしまうのである。
となると、その改心を思い切り劇的に仕上げるためには、いかな半生を歩んできたか、という提示があったほうが盛り上がりやすい。まあ、若いスタッフが、「それだとあまりにも陳腐で、テンプレートに遵いすぎる」と思ったのかも知れない。
しかし、荒井氏に、殺伐とした世界認識を語らせながら、たとえば「暗い空から雪が降ってくるような寒村に生まれて、貧病争のどん底で、唯一彼を愛してくれたお母さんを亡くし、鬼のように修行して霊能力を身につけた荒井氏」(←小生の捏造した設定です、念のため)みたいな無言の過去ショットを数秒で出し、母の形見の数珠とかを握りしめる、とかいうシーンがあっても、おもしろさは損なわれない気もするのだが。
(……その場合、もちろん最後に、荒井氏が再誕の仏陀に帰依する場面では、仏陀の傍らあたりに、「苦労の果てに亡くなった、優しいお母さんの霊」とかが見えて、荒井氏がぼろぼろ泣いたりするわけである……って、やっぱちょっと年寄り臭いですかね? こういう盛り上げ方)
いよいよ 映画は中盤に突入。
ここから、気合いの入ったパニックシーン、UFO襲来のお時間です。
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