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映画 仏陀再誕 感想レビュー(9) 東京ドーム大決戦 その1
- 2009-11-01 (日)
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映画 仏陀再誕も、一ヶ月の上映予定期間の折り返しにさしかかった。
友人や家族をお誘いして会員さんたちも映画に通う中、小生は昨日、うちの幼稚園児の娘にせがまれて、「映画 フレッシュプリキュア! おもちゃの国は秘密がいっぱい!? 」を見に行った。(違う映画ですいません)
驚いたことに、初日封切り日にも関わらず、夕方上映の最終回は、うちを含めてお客が十人程度。子供が五人で大人が五人ぐらいである。
「カイジ」も見てきた。お客は五人程度。いずれも三十代から二十代の女性たち。
うわ、映画館のお客って、五人とか十人ぐらいなものなのか?
プリキュアもカイジもかなり客入りが多い映画のはずであるが、それでこの入り。
それもそのはず、当日券が大人千八百円、子供千円。たっ……高い!
チビと二人でファミレスで二回食事をしておつりが来て、そのおつりでレンタルビデオ一回借りられる。
なるほど誰も映画に行かないわけだ。
いっぽうで仏陀再誕だが、なんと、年の行ったご家族に五回連続で見せたらリウマチが治って、十年ぶりに歩いて二階に上がれたと言う話が出てきたという(「幸福の科学の末端会員【ふろんてぃあ】な日々」さんの記事で紹介されていた、「MLより☆リウマチ飛んでけ~!」よりhttp://ameblo.jp/frontier-frontier/ 貴重なご紹介記事ありがとうございました)。 さすが宗教映画、御利益が出た。一回見たらおしまいの娯楽映画とは違って、こうなると何回でも見る人が出てくるだろう。
事実、その日も満席とはいかないが、そこそこの入り。
映画の斜陽も深刻な中、東映は幸福の科学との縁を切りたくないだろうなあとしみじみ思った。
さて、映画はいよいよ物語最後の山場である。
東京ドームでの二人の宗教者の一騎打ちまで、一気に話が流れていく。
『ヒロインの学校。
部室。
同級生にインタビューを受けているヒロイン。マスコミの目を盗んで帰宅したのが、ヒロインはあっさり誘拐されてしまう』
このシーンへの入り方も面白い。
あたかも記者達に囲まれているかのようにもっていって、実は部室である。
主人公の顔だけを映し、場所やインタビュアー等に関するミスディレクションを誘発する技。
ところで、ここで出てきた少女は、映画冒頭で、お弁当を一緒に食べていた少女。
声は雪野五月さんである。どうりで存在感がある声だと思った。
雪野さんは超実力派。どのぐらい凄いかというと、その好例が、アニメ「ひぐらしのなく頃に」の双子の姉妹の役柄の演じ分けであろう。
「ひぐらしのなく頃に」というアニメ(元はゲーム)は、同じ時間が幾度もループして、最後に若者たちが惨殺されるホラー。登場人物たちは、毎回記憶をなくして同じ時間をループさせられながらも、その時間の輪から脱出しようとするが、そのためにはそれぞれの抱える辛い人生の問題を仲間たちとともに解決していかねばならないのである。途中から泣かせる要素の入った感動ものの展開を見せる物語だ。
雪野さんが凄かったのが、この第二エピソード「綿流し編」(これは怖かった。コミックの最後は今思い出しても身の毛がよだつ)と、その解決編「目明し編」での演技。
性格の全くちがう双子の姉妹、という演じ分けのみならず、作中では二重三重の双子の入れ替わりが行われ、さらに片方が病み果てて片方を軟禁し殺害するような展開にまで至る、その姉妹のからみを一人で演じてしまった。「これでギャラが同じなんて不公平だろ」とアニメファンに言わしめた名演である。
その実力、この映画では二つの短い台詞で生きている。
オープニングではヒロインとからむこの人の声のお陰で、お客はすんなりアニメの世界に入り込めたし、さらに、この学校での短いが存在感のある台詞が最後のヒロインの回想も現れて、ヒロインの背中を後押しするのである。
つくづく豪華な配役だ。
『ヒロインの誘拐に気付く人々。
ヒロイン宅で、ヒロインの身を案じる一同。
いっぽう、TISでは、空野氏とメンバーの会話によって、これは荒井氏をあやつる悪魔の計画であり、「仏陀の法によって人々の心が浄化されると悪霊は居場所が無くなる。たとえ失敗しても、誰も宗教を信じなくなる」、と言うことが示される』
……この部分、三石さんの言葉から始まるやりとりは幸福の科学の教説そのまま。悪霊の居場所を無くし、正しい信仰を回復することが人にとって未来を拓く、という教義。三石さんの声が、たいへん耳に心地よい。
ちなみに、ここを聞いたときに、小生は ナルニア国物語の著者、C.S.ルイス教授ののデビュー作「悪魔の手紙」を思い出した。
内容は、年かさの悪魔から、若い悪魔 ( この若い悪魔は、一人の若者にとりついて地獄に引き込もうとしているのである) への助言の書簡集。
これは最後の一文まで見事な傑作ファンタジーで、悪魔の手口や人の心の弱さを知り尽くしていないと書けない一書だと小生は思っているが、
その中で語られる「悪魔にとっての成功」とは、まず
「人々の心に悪魔など絵空事で実在しないという認識をうえつけること」
であるという。
こんなのを読むと、なんか、世界、とくにインテリ層は、完全に悪魔の支配下におかれているんだなあという気がしてくる。オバマ氏がノーベル平和賞とか、民主党を全マスコミがヨイショとか、インテリ層は着々と悪魔の喜びそうな世界展開をしているような気がするのだがなあ。
『ヒロイン宅。たまたまついていたテレビの野球中継で、弟は姉をみつける。
荒井氏が円盤にヒロイン乗せて試合中の東京ドームに空を飛んで乱入してきたのである。
駆けつけるTSIのメンバー。』
黙々と宿題をやる弟の顔がいじらしい。
そこへ画面にお姉ちゃんが……って、うわ、あのUFOの触手は何だ! 幸福の科学アニメで触手が出てくるのか! と唖然とした一瞬。
後でわかるが、UFOは荒井氏の幻術で、コウモリが集まって二人を運んでいたのである。
なお、伴侶はぽつり
「大人二人を乗せて、飛び回るためには、いったい何匹のコウモリが集まれば、可能なのかなー。地上で人間に上に立たれたら、コウモリさんもきついだろうなあ、さすがにそのまま離陸するのは難儀だろうなあ。空中で飛び乗ったのかなあ?」
とつぶやいた。
……む、むごい指摘だ。(あんたほんまに熱烈な信者ですか?)
え、えーと、あれは念力で浮かしているんですよ、うん、念力で。頼むからそう言うことで納得して下さい、そうでなくてもここからは、つっこみ所満載なんですから!
『東京ドームの様子がテレビ中継されていく。もりあがるディレクター。「引きは一カメのみ! あとは全部寄れるだけ寄れ!」
その中で、五万人の命を人質に取られ、「私が本物の再誕の仏陀だと宣言するのだ」と荒井氏に脅されて、ヒロインの心は揺れに揺れる。』
……チャラ男ディレクター、あんたこの番組もやってたんですか。
なお、ここでテレビカメラに幻術のUFOがうつっていると言うことは、もはや半分ぐらい現象化しているのだろう。
(そうでないとこのあとの説明がつかないのである)
さて、五万人の命を人質にとった悪魔の恫喝。
……このシーンが絶賛もののシーンである。
悪魔というものの説得術をよくおわかりになっておられる。
……悪魔の言葉はひどく優しい。
一見、慈悲のようにも聞こえ、またそれだけとってみると常識論なのだ。
ただ、背景には轟々とうなりをあげる地獄の背景がうつっている。
小生は、赤い川と地獄の山河に見えたのだが、伴侶には、あれは爆破された後の東京ドームであり、「こんな惨状になるのだぞ」と示したのだと見たそうである。
三木さんのうっとりする美形声が、たまらなく快感だ。おお。いいぞいいぞ。
エヴァンゲリオンで、地獄的なシーンに天国的な美しいクラシックをかけるという手法を行って印象づけたが、このシーンは同様の手法で、天国的な説法に轟々と地獄絵図を組み合わせた。
サイボーグ009の「天使編」で、慈愛深い天使の姿をした最悪の破壊者に漫画ファンが衝撃を受けてから三十年(小生もコミックスで読んで震えるほどショックだったなあ)。ようやくこういう手法を映画に使ってくれる宗教団体が現れた、と思うと感慨深い。
なお、この悪魔の理論、現実でも非常に多く使われている。
最も多用しているのは言うまでもなくマスコミと民主党である。彼らの使う理屈のおかしさは、術に罹っているとななかな見抜くことが難しい。かくして、術にはまった日本国民の支持率は七十パーセント越えである。七割が非核三原則を支持しているこの国のひとびとは、今後、消費税三割、派遣禁止法、沖縄の中国返還、近海を中国の原潜が徘徊、という亡国への過程で、一体いつ、「友愛」の皮をかぶった「悪魔の論理」に気付くだろうか。
『悪魔の説得に心が揺らぎ、真実の仏陀は、荒井氏だと言おうとして、思いとどまるヒロイン。
だが、葛藤のすえ、荒井氏の変わりに空野氏の名前を叫ぶ。
怒った荒井氏に突き飛ばされ、グラウンドに落ちてて霊体を奪われたらしいヒロイン。 (ここの外人さんの台詞、置鮎さんの発声がよく聞こえませんでしたすいません)』
うわっ、ヒロイン五万人見殺しだ! ……というか、荒井氏の「爆弾」はブラフだったのだろうな。部下に逃げられているし。(なお、操念会本部に警察が入ったというシーンの後に、どうみても本部らしい場所で悪魔と対話しているのが変だという意見があった。そうでしたっけ? 次回確認してきます)
この葛藤は小生的に最高の盛り上がりどころ。小清水さんの演技も最高潮。
いい聞き所である。
「信じていいの?」「ひれ伏せば助かるの?」……宗教団体が作るアニメで、こうした「盲信」に対して疑問をなげかけさせる台詞を言わせるのも、やはり幸福の科学ならではと言ったところだ。盲信が嫌いなんですよ、この団体は。
なお、あの高さからヒロインがおちて、細そうな両手でキャッチって、彼氏どんだけ力持ちだ、というつっこみに対しては、まあ、「火事場の馬鹿力」ということで。
『そこへ空から子安さんもとい空野氏が登場。
いきなり説法をぶちかまして、ドームの人々は「あの方の言うとおりだわ」と気付く』
来た。
子安さんだ。
いきなり光る子安さんが空から降りてきた。
反射的に、「親方っ! 大変だ、空から子安さんが降ってきたっ!」という天空の城ラピュタの台詞 (一部改変)を思い浮かべながら、呆然と画面を見つめる小生。
いいシーンなのだが……いいシーンなのだが、ここが実は、ラストに向けての一番のシナリオの穴と思われるところ。
以下、拙宅の緊急家族会議。
伴侶 「生身の空野さんがなんで空から降ってきたの? 超能力で瞬間移動?」
小生 「いや最後に象に乗ってるから霊体、しかも肉体に近いと言われる幽体でしょう。象までドーム上空に呼んでこれるのは大変そうだし」
「じゃ、幽体だったらなんで一般のお客に見えるの?」
「いや、それはえーとあのほらその」
「霊能バトルの時も悪想念が見えて逃げまどっていたけど、なんでドームの全員が、霊体のはずの悪想念が見えたの。全員突然に霊能者になったの?」
「うー、そ、それは、あっ、ほらあれですよ、宇宙刑事ギャバン(←東映ヒーロー)の宇宙犯罪組織マクーが、怪人の能力を増幅する魔空空間(まくうくうかん) をつくったじゃないですか。
あれと同じで、荒井氏が地軸転換装置かなにかで東京ドーム全体に亜空間を作り出したので、その中にいたお客全員の霊能力が3倍に増幅……」
「……」
「……すいません、聴かなかったことにして下さい。
えーと、だからやっぱり、あれだ、現象化ですよ、半分現象化したですよ!」
……というわけで、拙宅では協議の結果、あのシーンは「半現象化」ということになりました。
うーん、ここまでシリアスで現実感があっただけに、この説明不足は惜しい。この映画がトンデモ映画認定されるとしたら、この一点の隙かな、と思う。
しかし、インドで上映されたときには数千人のお客さんが、日本でも若いお客さん達は、なんの問題もなく「そういうもんだ」と思ってみていたようなので問題はないらしい。
ちなみに、「宗教映画でドラゴンボールみたいな超能力バトルをやるのか」と驚いたり、批判的なアンチのお客さんもおられるようであるが、「孔雀王」「幻魔大戦」のころから、日本の宗教的なアニメや漫画には超能力バトルはつきものである。
あまつさえ、近年ではかわいいステッキとマスコットまで出てきて、変身魔法少女ものでスタートしておきながら、最後は宇宙規模の軍隊やら時空戦艦やら魔導師部隊が出てきて、ヒロインがステッキから魔法をぶっぱなして戦う熱血バトル魔法アクションものの傑作になった「魔法少女 リリカルなのは」シリーズもある。
魔法少女でさえ戦うご時世、宗教家だって戦いますよ、と申し上げたい。
なお、ここで、荒井氏を仏陀だと思いこんだ心の隙に阿修羅霊に乗っ取られ、争い合う、一般の群衆を正気に返した子安仏陀の説法は以下。
『人は恐怖による支配ではなく、慈悲の心を持ってして救われるのだ。
仏の教えをも自らの小さな知によって歪曲し、そうして自ら都合の良いように説明しようとする。
その心にあるのは、あたかも法を説く者で在るかのように偉い立場に立ちたいという欲望である。
自分の苦しみを薄めるために、他の人を動揺と混乱に陥れようとしてはならない。
自分一人のみよかれと思う心、これまた愚かなる人の特徴である自分のみを生かそうとすることが、自分をも殺してしまう。
自らの人生を私利私欲のためだけに使ってはいけない。』
ううむ、この映画世界のひとびとは、なんと素直なのだろう。
ファンタジーノベル大賞「イラハイ」で、弱り果てた民衆に高潔な演説をした人が、最後に民衆から「そもそも何の話をしているのかわからない」といわれて叩き出されたシーンを思い出した小生、どうも心がひねているようである。
『想念が具現化したらしいバトルの末に荒井氏を打ち破るが、地上に落ちた荒井氏から悪魔本人の出現。』
さて、怒濤の悪想念の襲来に対し、ゆらりゆらりと優雅なダンスを踊るように、鋭く美しい剣ではじく空野氏の動画がよい。
一度ラスボスが倒れてから本物が出てくるという二段変化はもはやゲームのお約束。
また出てきた悪役が、きっっっちり美形である。
この悪役のモデルは、言いづらいのだが、数名の実在した宗教者たちが入っている、とのことである。
あの衣服から察するに、ベースになっているのは真言密教中興の祖であり、根●寺、新●真言宗の開祖、、●教大師「覚●」という人ではなかろうか。
実は小生、「覚●」さんについてはあまり知らない。
とんちでおなじみの一●禅師 (一遍上人ではありません) も、実は地獄に堕ちたとされている。一●さんの場合は生前の言動を見ると、道を外しているのがよくわかるのだが、この人の場合、一見するとどこが悪いのかちょっとわかりづらい。しかし、幸福の科学ではかなり頻繁に名前の出てくる問題の霊であり、教祖さんが再誕の仏陀を名乗る、某京都の宗教や●●苑を指導しているとのことである。相当な悪魔らしいので、この人の本は読む度胸がない。
この悪魔の、いったん改心したと見せかける手法は、病院での時とおなじもの。タチが悪い。
『苦戦を強いられ、スーツまで汚れて空野氏ピンチ。
だが、スタンドの一般のお客たちを襲う悪想念に、羽を広げて人々を守る。』
演出的には、空野氏が地上で倒れた状態から、中空に飛び上がるまでのプロセスの絵が一瞬でもあると、より自然で見やすく嬉しかったかな、というところ。
ここで空野氏の内臓をつかんでねじっているのがかなり痛そう。
このシーン、実は教義的に意味がある。
霊の体といっても、幾重にも重ね着をしている体になっているというのが、幸福の科学の教説。ルドルフ・シュタイナー氏の教えでも詳しく書いてあるのはご承知の通り。
内臓がある霊の体というのは、いちばん肉体に近い「幽体」である。
これの「幽体」は、肉体とかなり正確にリンクされており、なんでも爪のかたちまで同じだという話である。
じつは、幸福の科学が脳死に反対している。
医療関係者なら知っていると思うが、脳死の「死体」から臓器を取り出すときに、「死体」がよく暴れるので麻酔を使うという話がある。医者は「単なる反射です」という。だが、暴れる体とそうでない体があるわけだし、理由ははっきりしない。
それに関して、幸福の科学では、死んで心臓が停止してからしばらくしないと、霊子線という魂の緒が切れず、そうすると、この「幽体」が、地上の肉体とまだダイレクトにつながっているため、肉体の内臓など抉られようものなら、そっくり同じ激痛を味わっているからだ、と説明する。(怖い話だ)
さらに「生きているのに臓器を取られた」という恨みで成仏できなくなるため、幸福の科学では臓器移植に待ったをかけているのだ。
もう一つ、教義に基づいてここで示されているのは、「天使、あるいは救世主クラスの宗教者であっても、悪想念に傷つくのだ」という点。
釈尊が仏典で最後まで悪魔につきまとわれたことは有名であるし、霊界探訪記などでも、悪想念とやりあって傷ついた天使の話が出てくる。
さらに、ここでは描かれなかったが、幸福の科学の教義では、救世主クラスや神に対する上位の霊に対する我々からの「愛」は、「感謝」の念を上げることであるとされている。
しかし、こんだけ映画の中のように、普通の人でも善悪がはっきり霊視できたら、世の中もっと良くなっていそうなものだがなあ、と嘆息が漏れる小生である。
だが、この世では、あくまで霊的なすべてを伏せたままで、霊的な善悪を判断してごらんなさい、という「試験会場」であり、「留学場」としての意味がある、とも言われている。そうした霊的な「カンニング」が許されないのが、現実の辛いところだ。
それに、「霊視がきく高僧でも、思いこみによって一発で幻術にかかり、悪魔が天使・菩薩だとだまされた」、というはなしが、小泉八雲やミヒャエルエンデの掌編にあった。やはり自分の認識力をあげて、善と悪を見破るしかないのだな。
『ヒロインの霊体を手にとって脅迫する悪魔。空野氏は、悪魔の思念に串刺しにされながら、釈迦時代の記憶を取り戻し、段違いの光で悪魔を圧倒する』
えっ。
ヒロインの体が手のひらの中だなんて、この悪魔、そんなに巨大化してたの? 空野氏とワンフレームで収まったショットがないからわからなかった。
ちなみに、この時点でヒロインの肉体は色を失っているようだ。絶命の伏線か。
ここで、劣勢の主人公がパワーアップして敵に勝つのも、バトルものの物語のお約束である。スーツの汚れまで落ちたところをみると、やはりこれって幽体だよなあ。
ここでのシナリオの減点があるとしたら、この悪魔の台詞「さあ、今すぐ仏陀の証明をして見せよ」が、まるで仏陀の覚醒を煽っているかのように聞こえること。実は仏陀の味方なんじゃないの、と思ってしまうような、都合良く聞こえる台詞回しが、かなり惜しかった。
そしてここで仏陀の過去世として使われるのは、映画「太陽の法」のワンシーン。名場面である。前作を見た観客としても、二重の意味で懐かしく、ぐっとくる。いやあ、こうしてみると映画「太陽の法」いいじゃないですか。あの時の方が作画が良かったように見えるのは、やはり制作日数の違いか。
そして覚醒した子安仏陀の説法は以下の通り。
『地上に降りたる仏陀は、その力を、その悟りを、その光を、その愛を、その慈悲を、偉大なる大霊から授かっているが故に尊いのである。仏陀はすべての権限をもって地上に降りている。その時代の価値を決め、その時代の正しさを決め、その時代の善とは何かを決め、その時代の真理とは何かを決める者。
それが、仏陀である。』
これが「仏陀」という存在の定義である。
国籍・宗派を問わず、仏陀を信じる仏弟子なら異論なく快哉を叫ぶところであろう。
面白いのは、このシーンで覚醒する前と後の空野氏の説法が違っていることだ。
覚醒前は、説法の内容も「貪・瞋・痴」の三毒を抜くことであり、個人の救いや小乗を説く仏陀であるのに対し、いきなり覚醒後、仏陀の定義を語り出す。
このシーンの仏陀は、大乗仏教の根本仏・根本神としての仏陀なのかな、とも思う。
この「変身」は、小乗から大乗へ育っていく、初期の二百年の仏教史が凝縮されたような印象を持った。
いっぽう、美を取り繕う余裕がなくなったためか、みるみる顔も体も醜くなって正体を顕した悪魔。嗚呼、さよなら美形。
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