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映画 仏陀再誕 感想レビュー(12) 映画の最後でわかる、「幸福の科学に資金力がある理由」

 長かった当ブログの「映画まつり参加企画」も今回で一区切り。

 ……いよいよ、エンディングである。

 このエンディングは、凄い。

 とにかく、エンディング曲の入り方、そして歌詞の第一声が文句のつけようがない。
 「ヤラレタ!」と素直に思った。
 映画の前まで、「今度の歌手って……えーと、ぺ様だっけ?」「ウ様だよ」などという会話をしていて本当にすみませんでした。

 じつは、当方、作曲とかシンセの打ち込みとか作詞とか声を入れるとかが好きで好きで、若い頃は音楽やめたら死ぬのではないかと思っていたほどであり、やむなく中断したときは魂の一部が死んだような思いで、正心館へいって礼拝室に音楽がかかっていると、「音源いくつだろう」「ここでこの効果音かァ」などと考えて瞑想にならないこともある人間なので、幸福の科学の音楽に関しても、自分なりの意見は持っていたりする。
 その小生が、大川総裁の作詞する歌詞を初めて聞いたときに感じたのは、
 「これはちょっと、一般受けしないかもしれない。歌詞が直接的で西洋的で、間接的な表現を好み、間接的な情緒表現を極端まで磨き上げることを美としてきた日本人の耳にはかなり辛いものではないか」
 ということだった。
 「惜しいなァ、これ、日本語ではなく、英訳して曲にのせると、とてもよい詩になるのではないか」
 とすら思った。
 ところが、その必要はないことが、今回は見事証明されてしまったのだ。
 まず、今回は、詩が違う。
 淡々と情景描写がされている詩であり、その詩の中に仏陀と呼ばれる人の心情のすべてが描かれている、ということが、我々にも伝わってくる詩なのだ。
 見上げれば青い空。そこに、太陽が一つかかっている。
この次の、
なぜと問う人もなく 輝き続け、照らし続ける
 「なぜと問う人もなく」 というのが泣かせどころ。
 ここで言う、「太陽」とは、霊的に見れば「霊太陽」と呼ばれるものであり、各次元に光を供給する、根本仏の慈悲のこと。
 それがなければすべての命は死に絶えてしまう。
 だが、その巨大な愛に対して、「なぜ」と問う人などいない。
 人は皆、自分の人生に夢中なのだ。誰も神のことなど、考えるどころか気づくこともない。根本で我々とつながっていて、それがゆえに人には仏性があり、判断し思考することがいまできている。根本の仏がなければ我々は、判断し思考するどころか、我々の存在自体がなくなってしまうという、最大の恩ある対象である。だが人は、そんなことを考えもせず、天につばを吐いても平然と生きているのがこの世なのである。
 そして、地上の生き物たちから、感謝どころか意識すら払われぬまま、ただその世を黙って包み込み、照らしている、その太陽の下で……
一人の仏陀が、ただ一人、孤独に法を説き続けている。
 ひたすら種撒くひとのように、彼の人は法を説き続ける。
 総裁はかつて、イエスの人生の行動原理は「種撒く人」の例えに集約されると言った。たくさんの種をまいても、その種が芽を出す場所に落ちることはまれかもしれない。
 しかし、種をまく人はそんなことには構わずに撒いていく。
 種まくひとは、雨に打たれ、風に吹かれながら、ただただ、孤独に撒き続けていくのである。
 青い空と、太陽と、孤独な仏陀。
 ……なんという図だ。
 誰もが存在すら意識しない神、そしてその神の心をただ一人理解する仏が、孤独に、淡々と、法を説き続けている。
 ……この描写だけで、反則である。

 しかも、その歌詞は、異国のなまりのある、雰囲気のあるプロに歌わせるだけで、こんなにもぐっと来る曲になってしまった。
 おそらく、この歌い手さんは根っからの信者ではないだろう。根っからの信者の人は、プロの歌手でも、なんというか、歌にチカラが入りすぎているのだ。
 信仰が先行して芸術作品を作る場合、作者の内心の信仰が、自然に芸術ににじみ出て、自然な作品になるには、やはりどうしても信仰を得てから十年ぐらいかかってしまう。
  それまではどうしても、真理の筋肉の力こぶがムキムキしたような感じの作品になってしまうのだ。
 料理にたとえて言うと、思いあまって「真理という薬草」をたくさん混ぜ込みすぎた、「ひどく薬臭い料理」になってしまい、「この料理食べなくても、困ったときに薬を飲むからいいよ」とお客に言わせてしまうような料理、とでもいったらいいのか。(ミヒャエル・エンデも、ルドルフ・シュタイナーを魂の父と仰ぎながら、シュタイナー教育の芸術をかなり辛く批判していた)
 しかし、今回は違う。
 一般のすぐれた歌い手が、オーディションに通ってから、自分なりに勉強して信者となり、曲を歌いこなした努力をした。
 その結果、意味を理解しつつも、純粋に歌曲としてこの歌を愛し、歌いこなしている。それが効を奏している。
 さらりと歌われた歌が、やはりさらりと人の心に届く。
 もはや、作曲編曲がいつもの水澤さんだなんて、絶対うそだろう(←失礼)、というほど様変わりした歌である。
 しかも、単品で聞いているとそれほど耳に残らないのだが、あのエンディングに入るところの一枚絵の映像である。
 あの美術、最高にすばらしい。もう、文句ありません。

 この夏、ウ様を生で見たことがある。彼は、総裁の巡錫についてまわり、総裁とは別にせっせとスタッフとともに移動して、あちこちでこの歌を歌われたようである。
 当地にも来て、総裁の帰られる際に一足早く出てきて、炎天下のテントで、新譜にサインするために座っていたのを覚えている。純粋なひと、という印象であった。いや、本当にご苦労さまでした。いまや、うちの小学生の息子が歌っています。

 さて、そのエンディングにのせての、キャラクター後日談である。
 お父さんが退院してきたようだ。癌の手術は成功したらしい。
 いっぽうで図書館のような本棚のある場所で、外人くんからの画像を見ている彼氏とその友達……ということは、ここはTISの事務所か何かだったのか!? てっきり図書館かどこかだと思っていた。支部精舎にもあんな本棚と蔵書が欲しい。(前に支部精舎にもっと本棚を! と進言して一発で蹴られたことがある)
 獄中の荒井氏も映される。正座の足の組み方が、足を重ねるやり方で、なんというか、修行者らしい。

 やがて、曲は二番、仏陀入滅の詩にあわせて出てくるのは、キャラクターのさらなる後日談。
 ヒロインは記者として仕事をしているらしい。ヒロインのパパも癌の再発がなく、ちょっと血色良くなったみたいでなにより。
 そしてヒロイン。
 等身が異様に小さい。これはやりすぎだろう。
 ヒロインの私服は……うーん、操念会の取材の時にも思ったのだが、アニメはどんなおしゃれをしても、セル画塗りの彩色で、どうしても安っぽい服に見えてしまうから、仕方がないところではあるかな、と。
 そこへ彼氏の車、登場。
 うわ、彼氏、髪、黒い! 
 髪の毛を黒くしただけで、チンピラっぽい若い子(←失礼)がイケメンの王子様に昇進してしまった。茶髪に染めるやんちゃは卒業したんだねえ。(でも、相変わらず車はすげえまっ赤なのに乗ってるんだねえ。)
 ちょっと気になったのが、彼氏の服に見える赤い線。なにかの身分証をぶら下げている紐のようにも見えるのだが、なにかこういうファッションがあっただろうか。流れから考えれば、TISの職員に就職、という感じではあるのだが。
 そして、彼女が乗り込むと、ガラスに貼られたあの時の写真。うわ、またよくこんなベストショットをとったな、弟よ。
 それを見ながら、「イヤーンなによこれ」「はっはっは、いいぢゃないかサヤコ」みたいな会話がなされていると思われる二人の前に、飛び出してきた弟。
 隣で見ていた我が家の幼稚園児の娘が
 「あああああああっ、でっかくなったあああっ!」と絶叫。
 (ここでだいたい五年後ぐらいかなとわかる) 相変わらずのカメラ小僧らしい。
 なお、キャストを見ると、弟くんの声は、白石涼子さんだったのか。
 この白石さんという人は、少年役の名手で、「ハヤテのごとく」の執事のハヤテの役で有名だが、今年は「咲」に「にゃんこい」に「夏のあらし」と、どれも目立つ作品で目立つ女の子の役をやっていて、そっちのほうがイメージが強くなってしまって、声を聞いていてもわからなかった。
 しかし、ひさびさに聞いた小さい子供役の声は、あいかわらずぴったりはまっている。 最後の最後までこの子の存在が映画をピリリとスパイスのきいた楽しいものに仕立て上げてくれた。
 それから、霊界の裁判官は西村知道さんだったか。最高によかった。もう一カ所どこかに出ているらしいという話も聞いたのだが、最後までわからなかったな。

 さて、エンディングも三番に入るが、じつは、ここから流れるテロップが面白い。
 まあ、背景美術は、釈迦の「過去七仏」時代の紹介とばかり、ムー→アトランティス ( 帆船がギリシャに似ていてわかりづらいがピラミッドの屋根らしきものが見える ) →アンデス→ギリシャ→ギリシャ→インド→日本、と、絵がかわっていくわけだが、驚いたのはそれに合わせて流れる、協賛企業の群れである。
 大黒天物産は、有名なところであるが、その他、なにがおどろいたといって……

 医者率、高っ!!
 塾率、高っ!!!
 建築さん、多っ!!
 
 これはもはや壮観である。
 特に医療関係。
 歯医者、外科、クリニック、医院……ぞろぞろ出てくる。
 こんなにいたんだ、幸福の科学のお医者さん。
 しかも、つきあいで参加したのではないことが、それぞれの会社の名前を見るとわかる。
 何しろ医院や起業の名前だというのに、
 「エル」「愛」「真理」「癒し」「エクセレント」「ヘルメス」「天使」「維新」「ユートピア」
 ……こういう名前のオンパレード、みなさん熱心な信仰者であるのは間違いない。
 幸福の科学にお金がある理由、資金力が高い理由は、このエンディング三番のテロップにすべてがつまっているといっても過言ではない。
 豊かで、しかも学歴の高い人たちがこぞって参加し、映画一つでもこれだけ布施しているわけである。というか、企業の名前にこれだけ「らしい単語」を使っているというのは、信者になってから会社を興して成功した、ということに他ならない。
 幸福の科学で説かれている発展の教えが、きちんと実証されている、と言うことであろう。
  なお、最後に大きく出た名前のうち、建築会社は、幸福の科学の相次ぐ精舎普請でかなりの仕事がまわっていっているから当然として、三省堂と紀伊国屋も協賛なのには少し驚いた。
 孤独にその身を削っておられる大川総裁に、その運動に、これだけの味方が居る、ということを知るのは、本当に心強いことだ。

 ……なお、大川総裁は映画をご覧になったときに、この最後の在家の人々の名前が流れるや、スクリーンに向かって合掌し、涙を流されていたとのことである。

 曲もいよいよ最後にさしかかり、歌詞の「悟ぉりにぃ~チャレンジーいいい~」、最初に歌詞だけ読んだときにはネタソング扱いされないかと気をもんだが、すんなり耳に入って、実によい。

 そして、歌がやみ、音楽だけになった、最後の最後。
 画面には、空野氏の瞳だけが大きくうつっている。
 瞳が開かれる。
 入れ替わりに「制作総指揮 大川隆法」

 ……これは、お見事。
 わかる人にはわかるだろう。
 これは、
 「私達は、再誕の仏陀を、大川総裁だと思っています」
 ……という、スタッフの無言の意思表示なのだ。
 実にスマートな信仰告白。
 最後の最後まで主張をつめこんで、見事である。
 ……かくして、二時間の長い映画が終わる。

 総裁、監督、声優さん、スタッフ、そして宏洋さん。
 三年に一度、今回の「文化祭」も、立派でしたね、と、成功をお喜び申し上げたい。

 ところで、ここで、ちょっと幸福の科学のアニメ史をふりかえってみたい。
 じつは、幸福の科学アニメは、最初、ヘルメスの時には昭和四十年から五十年代のアニメのようであった。
 無理もないことだと思われる。
 どのような良い物語が頭の中にあっても、それを今、その人が生きている時代に好まれる様式にコンバートすること、それが難しいのだ。この腕を磨くことに、どのメディアのどの芸術家も、ひどく時間がかかってしまう。
 いかな幸福の科学といえど、この壁は破れまい。物語が破綻していないだけでも、りっぱであるといえるだろう、と思ってみていたのだが……。
 なんと、その後、幸福の科学アニメは、一作ごとに十年ずつ進化していった。
 これはすさまじいことだ。
 大川総裁の手腕はやはり天才的だ、と思ったものだ。
 これに対して、「いや、何度も映画を作れば当たり前だよ」、という人がいるかも知れないが、けしてそうではない。
 たとえば、角●書店の元社長氏は、かなり長い間、幾度も映画を作ったが、宣伝こそ面白かったものの、本編も高い評価を得られる映画をとることができるようになったのは最近である。
 それが、三年に一回のアニメ制作で、次々と現代的なアニメの手法を使いこなしてゆき、前作・永遠の法は、八十年代から九十年代のアニメにまで追いついて、シナリオ的に、正直これ以上の表現はないのではないか、頭打ちではないか、というところまできていたように思われる。(わふわふさん、DVD貸して下さって有難うございます)こんな宗教家や実業家は、ほかにいない。

 そこへ、今回の宏洋氏の投入である。
 総裁は「今年行った新しいこと」の一つに、選挙や学園などとともに、この映画をあげていたから、宏洋氏に任せた、ということは冒険だったのだ。
 しかし、見事に今回の幸福の科学アニメは、今様のスタイルを完全にものにして、2000年代のアニメにまで追いついた。

 さて、次の映画は三年後。
 いま、日本に対して軍備拡張をおこなってやまない中国の、唯物無神論を打ち砕く作品にしたい、という趣旨の作品であるそうである。
 相変わらず、日本を極悪に仕立てた映画を世界で宣伝して賞をもらっている中国に、いったいどのような物語で挑むのか。楽しみである。
 
 なお、末筆ながら、今回の映画で、古い会員がとても喜んでいることについて、一つふれておきたい。

 おそらく、スタッフはこのブログを見ていないと思うので、安心して好き放題なことは最後にぶちまけさせていただくのだが、古い会員がなによりこの映画で喜んだのは、じつは、大川宏洋という一人の青年の成長なのではなかろうか、と思うのだ。
 伴侶は「大きなプレッシャーだっただろうに、よくシナリオの話を引き受けたなあ。偉いぞ」と一言。
 我々古い会員は、宏洋さんの生まれたときからのエピソードをよく知っている。
 B夫人に至っては、きょう子夫人のご実家で、幾度注意しても仏壇の灰をまきたくてたまらないちびっ子の宏洋さんを見たりしている。
 小学校二年生ぐらいで英会話ぺらぺら、体操教室にバイオリンの天才児、父上の講演をノートにとっていて、「木のロボットの発明」についての作文を書いたりしていたこと、みんなよく覚えているのだ。
 こんなことを言われても、彼には不本意かも知れないが、じつは、
 彼には全国に、彼が名も顔も知らぬ「伯父さん叔母さん」がたくさんいるようなものなのだ。
 その「名前も知らないおじさんおばさん」は、みな、彼の父上とともに戦ってきた(つもりな)ので、我々が初陣のころに生まれた赤ちゃんが、よくぞ父上の戦力になるまで成長されたことに、ありがとう、と申し上げたい気持ちでいっぱいでいる。
 (このレビューはもう少し辛い論評にしようと思っていたのだが、どうしても言葉が甘くなってしまったのはそういう事情です)

 また、これは、現代の宗教家の家族、というものに関する、一つの実証でもある。
 よく、若い作家の物語などで、悲劇の舞台設定を作るために「新興宗教の教祖の息子で、人生が狂った」みたいな話を書く人がいるが、そういう話は某教団の事件などをもとに左翼ジャーナリストの流布した言説をうのみにしているのであって、こうして見事に二十一歳で大きなプロジェクトを成功させる健やかな若者に育ったケースは、それらのステロタイプを打ち砕く何より強い実例なのだ。

 その上、宏洋さんは今回で、映画に関する押しも押されぬ実績が出来た。
 幸福の科学の頭の固い職員にも一目置かれる存在になったわけで、組織に風穴をあけうる人材になってくれそうである。
 彼はその感性で、一般コミック雑誌の創刊も考えておられるようであるし、これで次回のシナリオも担当することに異論はでないであろうから、その成長ぶりを楽しみにして待ちたく思う。

 ……いや、このブログも、まさか映画のレビューを最後まで完走できるとは思いませんでした。
 なんとか全十回で終わらせようと試みたのですが、こんなになってしまいました。
 一日に原稿用紙二十枚も四十枚も書いたのは久しぶりです。

 ……おつきあいいただいた皆さん、本当に有難うございました。
 ふだん全くご縁のない、アニメファンの方からも見に来ていただけて幸いです。
 しかし、反面、幸福の科学会員さんには大多数、訳のわからない話となっていたことは確実で、まことに申し訳ない次第です。
 (幸福の科学映画のレビューで、おるちゅばんえびちゅやら宇宙刑事やら魔法少女やら出てくる濃いブログはほかにないだろうと思います。
 アニメネタを書けば書くほど、なにか全国的に恥をさらしたような気がしますが、伴侶が「そのぐらい濃い感想を書かなければアニメファンは馬鹿にして読んでは下さらぬぞい!」と申しますので……)
 なお、使用サーバーXREAの調子が悪く、一日サーバーダウンでgoogleの検索から消失したり、小生のパソコンが突然、不調となり、書き込み・アクセスが一切出来なくなったり、相次ぐトラブルに見舞われております。xserverに移転しましたが、なかなかうまく運営できずに四苦八苦です。

 とりあえず、次回は、この流れで、総裁講義「映画 仏陀再誕について」を拝聴することが出来ましたので、そのあたりの感想と考察をアップしていく所存です。

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