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真なる「悼む人」は誰か(2)
- 2011-10-23 (日)
- 幸福実現党観察日記
空前絶後の、平野復興相の「逃げずに死んだバカ」暴言。
これに対して、なんと、朝日、読売、毎日、そしてテレビ局が、徹底的に擁護にまわった。
……正直、これには唖然とした。
ご丁寧に、朝日の天声人語は井上靖の小説「氷壁」(←主人公が亡くなった後、主人公に目をかけていた上司が「ばかめが!」と言う印象的なラストシーン)、読売の編集手帳は長田秀雄の戯曲「飢渇」を引き合いに出して、「一部を切り出してああだこうだ言うのはよろしくない」という論陣を張った。
……冗談ではない。
すでに流出した画像を見、全文の要旨を読んだ人なら誰でも分かるが、知れば知るほど平野議員に擁護の余地はないのである。
(発言要旨は以下、
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111018/plc11101820390017-n1.htm)
テレビはテレビで、「またも野党が言いがかり」「野党、またも復興を邪魔する」などという取り上げぶりが一貫していて、朝の番組では、以前、顔に絆創膏を張って出てきた大臣を気が狂ったように叩いた人気司会者が、この件をほほえましいニュースとしてニコニコ笑って紹介していた。
彼らの言い分は、「まーこれは、極めて親しい友人に対しての言葉なので、言葉狩りはよろしくありませんな」などという一件寛容そうな、まるで大人の態度。
今まで麻生内閣を気が狂ったように痛めつけて「言葉狩りは良くありませんな」もなかろうに……。
逃げることもできずに死んでしまった人びとがどのくらいいるか、知らないわけではあるまい。
彼らを見殺しにするように、自民党の「津波対策法案」を無視した民主党、そして、一人東京で、津波などどこ吹く風で大臣をやっていて死んだ人達を「バカ」と笑う男と、それを擁護するマスコミ。もはやマスコミは、自分たちの作った政権の評判を落とさないように、自分たちの保身に、必死である。
そしてその追い風を前面に受けて、民主党はついに、
【輿石氏が平野氏擁護「マスコミの皆さんも反省を」 2011.10.20 11:22 】
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111020/stt11102011240002-n1.htm
>平野氏の発言を取り上げた報道についても言及し、
>「こういうこと(報道)をしていたら、本音で答弁をする閣僚がいなくなってしまう。
>マスコミの皆さんにも反省してもらわなければならない」とも語った。
……ひどい話だ。
謝罪どころか、居直って逆に切りかかる、信じられない態度に出た。いかにも左翼らしいと言えば左翼らしい。
この件に関して正当に批判したのは、産経ただ一紙だけなので、事実上、産経を叩いたに等しい。
(……それにしても、この文脈で言うと、「死んだバカ」発言は、平野議員の「本音」であるというふうに読めるのだが、それでいいのか、日教組のお人。)
こうして、マスコミにまるがかりで守って貰いながら、
【「バカなやつ」発言 平野氏、国会で陳謝2011.10.21 15:36】
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111021/plc11102115380019-n1.htm
をしたようであるが、自民党の論客達が見過ごすとは思えない。国民の代わりに、国会の質疑応答では盛大にやっつけていただきたいものである。
それにしても、暴言だけでもあきれかえるのに、マスコミと輿石議員の居直りの非常識さに、あきれる人も多いだろう。
「なぜこんなひどいことを平然と言うのか。理解できない」
という声も聴いた。
答えは簡単である。
……これが、「唯物無神論者」の生き様だからだ。
死ねばそれまでで、人間の魂など残らない。それが彼らの「科学的常識」なのだ。
たとえば、平野議員も、公共の紙面や電波で大々的にそれを擁護した人びとも、来年のお盆に、数千の震災で亡くなった人びとが、ものもいわずに自分の周りに押し寄せてじっと黙して自分を睨みつけているような図など、想像だにしないに違いない。
だからこんな「人でなし」の行為が出来る、これが唯物論の政権と、唯物論のマスコミの本領なのだ。
少し前に、直木賞を受賞した「悼む人」という作品が話題になった。内容は、1人の純粋な若者が、ニュースなどで知った人の死の現場に赴いて、ひたすらその死を悼み、日本中を歩いて回り、その姿に関わった人々が救われる姿を描く、という内容に読めた。マスコミも文壇も高い評価だった。その評価のポイントは「宗教と関係がない、これぞ人による新しい「悼み方」」「宗教と一線を画したところがよい」というようなニュアンスだったと思う。要するに、「既成宗教はダメ。死後生とかうそくさい。でもそれを外した悼む人は唯物的でたいへんよろしい」ということだろう。
だが、果たしてそうだろうか。
唯物的な価値観で人を悼むことは、そこまですばらしいものなのだろうか。
一部マスコミが、未だに批判を繰り返している、新宗教の雄・幸福の科学は、どういう態度で震災の犠牲者に接しているか。
大川総裁の書籍「逆境の中の希望」を手にとっていただきたい。
この書籍には、通常の書籍と同価格で、しかも、CDがついている。(←手にとって、「大川総裁、これ、採算はどうなのだ!」とまっさきに悲鳴をあげたくなった)
幸福の科学を批判する諸氏は、そのCDの内容をお聞きになったことがあるだろうか。
ここに説かれているのは、生きた人びとのためのものではない。
これは震災でなくなった人に対する、総裁自らのアナウンスである。
読経をされても、なにやらさっぱりわからないどころか、マスコミやら議員からは「死んだんだからゴミも同然」みたいにして、存在自体を否定された、震災でなくなった大量の人びとの魂に対して、日本で唯一、講演を通じて語りかけた説法がここにある。
総裁は「被災地で、このCDを頻繁にかけてほしい、そうすれば、必ず多くの人が成仏できるだろう」と、そう思って、はたからみたら奇矯な、死者への説法を行い、それを採算度外視したCDにして書籍につけた。
マスコミ人や左翼の政治家、唯物論者たちが、いざ被災して死亡し、魂だけとなったときに、果たして、どちらがありがたいか。
どちらに救われるだろうか。
そんなことは一目瞭然だろう。
これが宗教家だ。
山と積まれた批判をよそに、もくもくと瓦礫を片付けるがごとく、人を救う。
これが、魂の実在を信じる人のすることなのだ。
結局、真に悼む人とは、死したる人びとが今も実在して苦しんでいることをはっきりと知覚し、その人びとに有益な言葉を投げかけることができる人のことを言うのではないか。
その事実を噛みしめ、阿呆な大臣とマスコミをよそに、切ない思いと共に、「逆境からの希望」のCDをせめてもの供養にかけて、あらためて震災の犠牲者に黙祷を捧げたい。
(……なお、「悼む人」という小説に関して言えば、文壇やマスコミの持ち上げ方とはちがい、正直、ひたすら「死者を悼む遍歴」をくりかえす純粋無心な魂の若き主人公に、あの物語の後で、大勢の随伴者ができることが予想され、そういう意味で一つの「教祖誕生」物語として読めたし、圧倒的な筆力の美しいラストシーンは、主人公のお母さんの亡くなる瞬間の断末魔の幻想という体裁なのだろうが、内容的にはきっちり霊界への移行としか思えない描写であって、それが、昔ながらの宗教家の霊的救済物語として、一般読者に感動を呼ぶ大きな要素になっている感があったことも申し添えておく。個人的には「あ、作者の天童さん、これまでの苦しさに悶えて転がっているような作品から、確かに一歩つきぬけたな」という感じがして、お喜び申しあげたい一作でした。
また、今回の件で、神になりかわったかのごとく、勝手な正邪の基準で平野議員を擁護したマスコミも、連日、韓国問題では、とある日には「韓国は日本を追い抜いた。日本はもうダメ、二流国だ」と喧伝しては「いや、いま、経済的に窮している韓国を救うのに数兆のスワップ援助が必要だ。人道的に当然だ」とまあ、一日おきに支離滅裂な報道を繰り返し、いよいよその終焉も近づいてきたかな、という気がする。
民主党政権になってから、マスコミにはハラワタの煮えくりかえる思いをされている諸氏も多かろうが、出版・新聞・テレビを含めた、マスコミの未来に関しては、一昨年の暮れに出された 大川総裁の「未来創造のマネジメント」(←10,000円近い書籍で、三年間、年末に刊行された「経営三部作」とでもいうべきシリーズの一書。このシリーズは、経営テキストとしても面白いが、とりあげられる事例がかなり面白く豊富な話題がつまっている)の中の予言と、今回のTPPに関するあれこれを見ると、面白い未来が見えてきそうだ。それはまた稿を改めて申し上げたい。)
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