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映画『神秘の法』が、第85回アカデミー賞審査対象作品にエントリーされた理由

 つくづく、話題に事欠かない団体である。
 幸福の科学製作で、現在上映中のアニメ映画、「神秘の法」が、第85回アカデミー賞長編アニメ賞の審査対象作品にノミネートされた。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121103/ent12110318410009-n1.htm
 驚いたのはアニメファンだろう。
 「カルト映画」だと思って、ノーマークだったアニメが、今年のそうそうたるアニメ映画全てをさしおいて、ジプリのコクリコ坂と並んで、日本から、2作品のみのエントリーに入ったという。
 とくに、ミステリ・SF・アニメファンの頭の中には、「と学会」などの活動によって、『幸福の科学はカルト』という図式が確固として出来上がっているはずであるから、この結果に、「そんなばかな!」と叫んでいる人も多かろう。(……実社会では企業のトップとか政治家などは、実際に幸福の科学の本を読んで役に立つことを納得しているので、そうでもないのだが) みなさんの心中の混乱、お察し申し上げる。

 実際、この話には管理人も驚いた。
 管理人は、映画・テレビシリーズあわせて年間20タイトル程度 ( この数が多いか少ないかよく分からないが) のアニメを見ている。アニメに限らなければ、映画館で年間30本近く映画を見ている。
 その自分が、個人の好みとは別に、今年のアニメ映画トップ2を選べといわれたら、「おおかみこどもの雨と雪」「魔法少女まどかマギカ」を選ぶ。(前者に関しては言うまでもないほど有名。後者は、前後編合わせて四時間の大作にも関わらず、アメリカ封切りののち、一館あたりの興行収入で、全米第二位となった。この知らせは、日本人としても、ニコニコ動画無料配信以来の「まどマギ」視聴者としても嬉しい限りだ)
 にもかかわらず、それを抑えて、アカデミー賞にエントリーされたのは「神秘の法」と「コクリコ坂」だったのだ。

 なぜこの2本なのか……。
 思うに、アカデミー賞アニメ部門のエントリー基準というのは、「映画として世界中の大人が見て面白い」という点にあるのではなかろうか。
 その基準をもっとつきつめると、たとえば、乱暴かも知れないが、「その日本のアニメ映画を、実写で撮り直しても、大人の鑑賞に堪えうるか」というふうに考えるといいのかもしれない。そうしてみると、「まどかマギカ」も「おおかみこども」も厳しい(しかも「まどマギ」は未完だ)が、「コクリコ坂」は邦画ドラマとして、「神秘の法」はハリウッド映画として、通用しそうな気がする。

 では、実際、「神秘の法」はアニメ映画としてみてどうなのか。

 正直、管理人は、この映画については、「……残念だ」という感が強かった。
 どういう意味で「残念」なのか。
 その感想に触れる前に、これまでの幸福の科学アニメについて、少しおさらいしておく。

 実は、幸福の科学ほど、宗教界の中でまじめにアニメーションという媒体を評価し、きっちり真剣に作っている団体はないのではないかと思う。

 教団の最初の劇場版アニメ映画「ヘルメス 愛は風のごとく」。
 ……この作品は、ちゃんと普通のアニメ映画になっていた。
 実際、「ファンロード」という、古いアニメファンならみんな知っているオタクマインド全開の雑誌があったのだが、この映画はその雑誌にも紹介記事が書かれ、「美しい神々に逢いたければ、この映画、いいかもよ」みたいなお勧め記事が載っていた。(証拠のファンロードはうちの押し入れに積んである) ファンロードに見る目がなかったわけではない。実際、その後、公開されたこの映画は、1997年度の毎日映画コンクール・日本映画ファン大賞で2位を獲得したのである。(1位はもののけ姫) いや、それでも信者の工作ではないか、と言う人のために、映画のクオリティに関する証拠を一つあげておく。
 管理人は、今年も、小さな娘にせがまれて映画プリキュア(←毎年見てます、今年も面白かったです)「絵本の国はみんなチグハグ」を見にいった。その冒頭で、白く輝く目に見えない羽が天から降りてきて流れ、作品の鍵となる絵本の表紙に貼りつくシーンがあったが、これをみて、心底驚いた。
 これ、幸福の科学のアニメ映画「ヘルメス」の入り方と同じなのだ。映画「ヘルメス」では、目に見えない金の羽が天から舞い降りて王宮へ流れ入り、ヘルメスの母となる女性の受胎を示すシーンが冒頭なのだ。
 要するに、「幸福の科学アニメでは、十数年あとになってから、普通に一般のアニメ映画で使われるようなシーンをすでに使っていた」ということが、今年のプリキュアで証明されたわけだ。
 最初から、この団体は、そういうアニメ映画を作っていた。

 (余談だが、今年のプリキュアの映画は、テーマ・内容ともに、きわめて幸福の科学映画に通じるものがあった。
 ……たとえば、子ども達には、劇場の受付で、羽の形、ウイングを模したライトが渡される。劇中で、主人公は、悪役の女の子をかばって死んでしまう。しかし、劇場の子ども達がウイングのライトを点して応援すると、映画の画面でも光が集まって復活する。みんなの応援を受け、復活した主人公は、女神というか、天使の形態に、さらにもう一段変身するのだ。
 ここで、劇場に来た子ども達は「他人をかばって犠牲になる主人公の死と復活」「自分をも含む、人々の善意が光として結集し、主人公の力になる」ということを、身をもって体験するのである。
 さらに、最後は「愛で憎しみが氷解」し、悪役の少女は「理不尽で不幸な境遇にあっても、自らの未来を開くために必要なのは、人を頼ったり恨んだりすることではない。破られた未来のページの先の物語は、自らで切り拓いていける」と悟り、マインドセットを入れ替えて、ラスボスたちと全員で幸せになるのだ。
 ……すごい幸福の科学とのシンクロ率の高さ。幸福の科学が子ども向け映画を作ったら、まんま、こんなんなるのではないか。ちなみに今年の映画プリキュアは、過去最高の入りだそうである。
 さらに、帰宅して、録画したプリキュアも娘に見せられた管理人は二度驚いた。
 プリキュアたちの通う学校が生徒会選挙をやるのだが、悪の幹部たちが学生に化けて入り込み、立候補し、民主党みたいな耳に甘い、しかし不可能な公約ばかりを言って、生徒の心を掴んでしまうのである。正論を言うプリキュアたちはみんなからそっぽを向かれる。ううむ、どこの日本の衆院選だ。しかし、結局、プリキュアのメンバーの一人で求道的な少女が立候補し、立ち会い演説会で、必死の正論の演説を繰り広げ、みんなの心を変えて、選挙で勝利を得るのであった。なんとも「ファイナル・ジャッジメント」なお話ではないか。
 ……ところで、大人のオタクなプリキュアファンという方々もおられるそうだが、そうした人々に、イベントでは声優さんたちが、「大きいお友だちの皆さーん」と呼びかけるそうである。毎年、娘に拘束されながらプリキュアを感心して見ているうちに詳しくなっていき、いま、こうして大まじめにプリキュアを論じている自分を発見するとき、自分はもしかしてすでに「大きいお友だち」ではないかという思いにガクゼンとする管理人でありました)

 さて、その「ヘルメス」以来、この団体は、そういう宗教的なアニメ映画を、その後、3年に一回、発表してきた。
 しかも、すべて毎回、まったく趣向が違う。キャラクターも違う。設定も違う。
 ……これがいかに異常なことか。
 他の教団をご覧なさい。
 「蓮如さま」とか「良観さま」とか、教祖様の伝記をアニメ化したらそれで終わりだ。仏教団体は、手塚ブッダを一回映画化したらもうネタがない。例外は、テレビアニメの一休さんだが、あれはもはや、史実や大徳寺とは関係が低い、アニメスタッフの創作だろう。
 それがふつうの宗教団体のアニメに対する取り組みだ。そもそも、他の宗教団体が宣伝映画を本気で作るなら、実写でお金をかけてやるだろう。アニメなんて子ども向けだ。それが普通なのだ。
 ……ところが、ここの団体は違う。
 テーマは毎回、「救世主もの」「仏陀もの」であるが、次から次へ、全く異なる斬新な映画を作ろうとするのだ。
 たとえば、未来からのタイムスリップもの、次は霊界通信機と霊界探訪もの、その次は悪の教団とのバトルもの……これ、大川総裁がすべて基本ストーリーを出していると思うのだが、まあよく思いつくものだ。
 声優の子安さんも、オーディションだったと思うが、総裁自ら選んだと聞いている。
 しかも、これまた総裁の指示で、映画作りにおいて、色々な実験を試みている。
 たとえば、ある映画では、撮影に当たって、それぞれのシーンで使うBGMを、2時間分、すべて先に作らせたという。そして、その長さに合わせてシーンごとのドラマが終わるようにする。こうすれば、お客は全編、音楽と映像を、キリよく楽しめるという試みらしい。
 ……等々、単に教団の宣伝になればいいというだけでなく、アニメ映画としても、何か既存のアニメにない、新しいお客のもてなし方を発明して、来た人に楽しんで貰おうという、そんな姿勢でこの団体は映画を作り続けてきた。
 そのアニメに対する真摯な姿勢が人材をよぶのか、声優さんは毎回豪華だし、教団の初期の頃のアニメビデオは、のちに「けいおん」を撮る監督さんなどが関わっていたりする。
 そして、毎回、シナリオの完成度は、上がっていった。
 最初のヘルメスは六十年代のアニメみたいだったのが、一作ごとに垢抜けてゆき、前々作の「永遠の法」で、そのシナリオ技術はだいたい完成したように見えるや、次の「仏陀再誕」では、なんと、まだ若い大川総裁の長男氏がシナリオの責任者を引き継いで、台詞回しが一気に若々しくなった……。

 何が言いたいかというと、つまり、この団体は、三年に一回、宗教アレルギーさえなければ、普通の映画として「見れる」作品を、これまでずっと輩出する努力をしてきたのだ。
 アニメ業界にとってもありがたいお得意の一つであったはずである。
 その、幸福の科学の最新作が、今回なのである。
 今年の春の、実写映画「ファイナル・ジャッジメント」は、実に出来が良かった。
 どう良かったか、どこが悪かったか書くと、これまた果てしなく長くなってしまうから割愛するが、実写の邦画として大変面白かった、ということは言える。
 であるから、この秋のアニメ映画「神秘の法」も、かなり大きな期待をしてみたのだが……。

 「ああ、惜しいなぁ」というのが、今回の正直な第一印象だ。
 これ、この団体の映画にしては、シナリオが未完成……7割ぐらいの完成度ではないか。

 確かに見どころは多い。
 ファイナル・ジャッジメント同様、CGなどはすばらしくよくなっていて、以前の映画ではバービー人形みたいだったCGが、今回は、まあ、よく動く動くすごいすごいすごいすごい。
 中国の皇帝が生み出した巨竜の霊体と、日本を守るヤマタノオロチの霊体の出現シーン、宇宙まですっ飛んでのバトルシーンはじゅうぶん熱くなったし、ラスト付近でつぎつぎと地獄界から湧いて陸空から押し寄せるゾンビの軍団を、日本神道の武闘派な神々や、巨大な仁王像が叩き伏せるCGシーンは日本人としてたまらぬ愉悦で、快哉を叫ばざるを得ないだろう。
 木花開耶姫は文句ない美形の日本神道の麗しい女神だし、ヒロインのシータも懊悩や葛藤を抱えて気丈に戦う、けなげで魅力的な女性だ。最後で中国の皇帝が亡くなるあたりも、その悲しみの回想と、切ない人生の最期が、無言ながらあざやかに、たいへんよく描けていた。主要な人物造形、内面描写もばっちりである。

 ……しかし、全体に分かりづらいのだ。
 言いたいことは分かる。
 が、伝わりづらい。
 時々、隔靴掻痒のようなもどかしさを感じる。
 そして、残念ながら、日本のアニメ映画を見慣れた者にとっては、クライマックス近くに、目立つシナリオのキズがある。
 クレームを覚悟ではっきりいってしまうが、そのキズとは、後半、主人公が相手の切り札、最終兵器となるミサイルの発射基地内部にのりこむところである。
 このミサイルはベガの科学技術を応用して皇帝が発見した兵器で、ベガもこの兵器の攻撃を受け、地下に生活せざるおえなくなったほどの破壊力のある兵器である。
 当然、皇帝の切り札であり、最重要基地であるので、もっとも警備が厳しいところであると事前に予想される場所なのである。
 対する主人公は地球規模の大団体のトップ。彼が捕まれば団体自体が壊滅させられる。
 なのに、そのトップが、自ら潜入しにいってしまう。そして、待ち伏せされた中国兵に囲まれてしまうのである。銃と念力を使った戦闘になるが、その応援に来たベガ軍人は科学力が高いはずなのに、中国軍に押されてしまう。ついに、ベガの味方兵士が1人死んだことに耐えられず、あっさり主人公が投降してしまう……。
 このあたりの展開は、「?」と言いたくなる流れの連続であり、なにより残念なことに、主人公が愚かに見えてしまうのだ。
 確かに、現実の大川総裁という人は、こういう、一番危ないところ、一番キツイ戦いの所を、弟子に任せず自分で引き受けるタイプの強いリーダーだ。それは、フライデー事件や、衆院選挙の時など見ればよくわかる。
 しかし、それをそのままアニメでやると、「主人公の投降の後は組織もろとも大弾圧、大勢の団体メンバーが全員処刑される運命が待っているはずなのに、あまりにもこの主人公、不用意すぎる」ということになってしまう。
 これは本当に残念な部分だ。 
 このキズは、おそらく、前半の分かりづらさを整理して時間を作ることで、リカバリーできる気がする。
 例えば、シナリオを修正するとしたら……。
 映画の冒頭にいきなり宇宙空間から地球を見る2種類の宇宙人を会話させて「インディペンデンス・デイが近い」ということを臭わせる。
 次のシーンで、場面は地球上にうつり、インドのブッダ時代のオーパーツが発見されるシーンを持ってきて「救世主物語なのだ」ということを示す。
 そののち、主人公が難民キャンプで空を見上げるような一カットだけ入れて、そこで、中国の脅威を伝えるナレーションとタイトル。
 そして、物語自体は、いきなりアメリカ空母が中国に沈められるあたりからはじめる。(ここでチャン・レイカの技術力と懊悩を描写)
 それに対して、オバマ(←本人そのまんまでこれは笑った)が静観を決断。
 日本では議員達が騒ぎ、悩乱している場面を写し、心ある議員が国会から帰る途中に襲われるところを主人公たちが守ってのカーチェイス、主人公が予知を発揮して議員を守ってのける……と、これでオープニングは充分。(ゼネラルの死の予知をする主人公の能力発揮は、暗殺の少し前に入れても間に合う)
 こうすると最初の状況説明に費やした時間が浮くはずなので、その浮いた時間で、後半、主人公が単身で乗り込まねばならない理由や、捕まってしまうまでのドラマを描写すれば、作品はずっとわかりやすく、説得力のあるものになる。

 ……いや、こんなブログでこんなこと言うまでもない。
 このぐらいの修正、いや、もっとうまいリカバリーは、前作、前々作のシナリオ水準から見て、ここのシナリオスタッフは楽勝で処理できる力量があるのだ。それは間違いない。
 しかし、今回は、できなかった。
 なぜか。
 時間がなかった。
 どうしても、今年は、一年に二回、幸福の科学の映画を上映する必要があったのだ。
 その理由は、「現実の中国の軍事的な脅威」である。
 いま、日本はまことに危ない状況にあるのだ。
 どこもそれを言うところがない。マスコミは未だに中国を庇っている。このままでは本当に植民地にされてしまう。
 幸福の科学の、ここ十年の大きな活動目標の一つは「中国に日本の侵略を許さない」「中国の全体主義を思想戦で崩壊させる」ということで、これは常々総裁が明言していることだ。
 その目標のために、この一年はとても大事な年になる、ということも語られている。
 だから、今年、映画という武器を使って、一年に二度というハードなスケジュールで、「中国が侵略してきて、日本は占領される」という映画をつくり、上映した。たとえ、2本目の映画が未完成な映画として、教団が叩かれようとも、だ。
 中国の脅威を伝える団体や、手段が、日本にないなら、どんな恥をかいてでも、その役目、自分たちがやろう、と幸福の科学は、思ったのではないか。
 なにせ、彼らは、幾度も幾度も選挙で落選しようと、笑われようと、野次られようと、立ち上がっては国防を訴えてきた、幸福実現党の母体団体である。根性が座っている。
 そうした社会情勢から、彼らは今年、三年に一度、本来なら教団の恰好の伝道になるはずのアニメ映画で、彼らの本来の力量を存分に発揮して、満足な映画を作りたいという欲求を抑え、キズのあるシナリオで叩かれるのを承知で、今日本のために警告が必要だという観点から、この映画を作り、世に出したのではないか。
 これはなんとも、「自らが損しても宗教団体としての本分を守らん」とする、大川総裁らしい戦い方に感じられる。しかし、その結果、やはり、前期の実写映画に力をとられ、このアニメのシナリオを練る時間は、いささか足りなくなってしまったのではないか……と思ったのだ。

 それらの感慨を含めて、
 『もう一年時間があればわかりやすく作れたのに……』と、管理人は嘆息した。
 それが初見での感想だった。
 しかし、それは、映画をみるお客さんにとって、作り手の事情である。
 お金を払って劇場に座った人にとっては、まったく関係のないことだ。
 『この内容で、はたして、お客の入りがあるだろうか……』
 管理人は、映画を見た後、たいへんに心配になった。
 
 だが、そのキズとも見える各種の問題を圧倒する魅力が、この映画にはあったのだ。
 それに気づかされたのは、一般のお客さんの反応だった。
 映画を見終わったあと。
 一般のお客さんで「すまんけど、もう一度見たいから、チケットあったらくれないか」という人がちらほら出てきたのだ。
 これには驚いた。
 「えっ。わかりづらかったでしょう。どうしてもう一度見たいの?」 
 聞いてみると、さまざまな答えが返ってくるのだが、まとめると
 「正直、この映画、よくわからん。けど、この世界観、このスペクタクルは、未来に必要な気がする。もう一度、見たい」ということらしい。
 これはどうやら全国的な現象らしく、幸福の科学として今年2本目の映画で、しかもアニメであるにもかかわらず、ロングランが決定したという。
 もしかしたら、この作品に限っては、「わかりづらさ」が、「神秘性」という魅力となって作用しているのではないか、と、管理人はそのとき、はじめて気づいた。

 そして、今回、アカデミー賞の審査対象作品に残ったと言うニュース。
 それを聞いたときに、大川総裁が英語習得に関して常々口にしている言葉を思い起こした。それは
 「英語は内容。どんな流暢に英語を話す人でも、内容がないと認めては貰えない。そのかわり、たどたどしい英語でも、しっかりした内容があれば相手は必ず食いついてくる」 というようなことだった。

 では、今回の映画「神秘の法」にある「内容」とは何か。映画の欠点を凌駕する魅力とは何だったのか。
 独断で言わせて貰えば、それは「カルチャーショック」とでもいうべきものではないかと思う。
 映画「神秘の法」の中には、
 「中国の世界侵略」
 「宇宙人の善玉悪玉と宇宙協定」
 「地球の地獄界と天上界」
 「地球の救世主と別な星の救世主」
 「地球の自浄作用による天変地異」
 「救世主の悟りの内容とプロセス、転生輪廻」
 「日本神道系の神々軍団が、ヤマタノオロチを筆頭にして降臨し、日本を守るためにやらかす派手な霊界バトル」
 ……まあ、どれをとってもばかでかいスケールで、ふつう、どれか1本で映画二時間作れる内容である。
 ところが、この映画はこれだけの内容をすべて詰め込み、説明不足はあるが破綻もなく、全部まとめて大団円のハッピーエンド (主人公の悲恋も、来世に成就しそうだ) にしてしまっているのだ。
そのすごさを、たとえて言うなら、
 『 「インディペンデンスデイ」と「ブッダ」と「アイアムナンバー4」と「イエス伝」と「アルゴ探検隊の大冒険」と「デイ・アフター・トゥモロー」のクライマックスシーンを全部入れて、しかも破綻なくまとめて、最後に地球は救われた』
 という感じ。
 しかも、ここには、キリスト教圏では聞いたこともないような思想がふんだんに入っている。
 その筆頭が、「過去のキリスト教でも仏教でもない、宇宙時代の地球の救世主」、という存在があり得ると描き、その教えをもごまかすことなく具体的に描き、さらに、「惑星をまたいでの転生輪廻」とか、「他の星にも救世主がいて、救世主同士が互いの星の人々を愛し守ろうと苦悩しながらも、恋に落ちる」という展開を描いたことだろう。(念のため言っておくが、二人の救世主は男同士ではなくて、片方が女性である)
 こんな映画は、ハリウッドのどんなプロデューサーも、思いつきすらしないはずだ。
 そんな物語を日本の高いアニメ技術で美しく描き出してあるだけでも、驚異だろう。カルチャーショック以外の、なにものでもないはずである。

 次に、この映画の「分かりづらさ」を「神秘性」と感じられるカギはどこにあるのか。
 おそらく、それは、おそるべきことに、これらの映画の内容と世界観は、単に一作家のフィクションではないということにあるのではないか。
 上記の内容は、そのほとんどが、単に映画を面白くするための設定ではなく、実際に、二十年かけて大川総裁が実践で組み上げ、世界各国で数百万単位の人々に対し、布教に成功して救済力がある、現実の宗教の「教義」なのである。
 作り手が、そして、多くの人が、それを本気で信じている。つまり、この映画は、作り手と、世界の数百万の人々にとって、フィクションではなくてノンフィクションなのである。
 現実に、数百万の人たちが、この世界観を信じ、劇中の救世主の説く教えに従って、人生を律していこう、としているのだ。
 この重みは、大きい。
 作り手の彼らは本気だ。
 この映画を見に行った人は、要するに、「現実に存在する、キリスト教徒も仏教徒も違う、日本発祥の、見たことのない新たな宗教世界」との接触・遭遇をさせられてしまうのだ。
 そこで、作り手の、その「本気」を感じ取り、その背後にある、巨大な宗教団体の存在を感じ取ることのできた人々は、「この映画には、何かがある」と感じるのではないか。

 そんなことを念頭に置きながら、同じアカデミー賞アニメの候補作をチェックしてみる。
 「メリダとおそろしの森」「ロラックスおじさん」「アイスエイジ」「マダガスカル」……どれもたいへん面白かったし、心にしみるところはあった。
 だがそれらは、ハリウッドではよくある、おなじみの世界観・おなじみの主張、おなじみのフィクションだ。
 かたや、「神秘の法」は、それらとは一線を画した世界観・宗教観を持つうえに、「この映画は、俺たちにとってノンフィクションだ!」という意気込みをもって作られた作品だ。
 そんな異質なカルチャーとの接触体験ができる作品は、ほかにない。
 管理人は想像する。
 ……映画、「神秘の法」を見た選考委員は、巨大なスケールの異世界を見たような衝撃を味わい、その神秘性に魅せられて、エントリーに推さずにはいられなかったのではなかったか、と。
 ……あたかも、日本の田舎の映画館で、見終わったおじさんおばさんが、自分でも何故かわからないまま、信者さんに、「ねえ、これ、もう一回見たいんだけど、チケットもう一枚ない?」と言わずにおれなかったように。

 強烈な未体験の「カルチャーショック」。
 その背後に、霧に包まれたように広がる、未だ知られざる、新しい宗教の存在感。
 そこにこそ、この映画の魅力があるのではないか。

 そう考えて、もう一度映画を見直すと、今回の審査対象作品入りはわりと納得がいくと思うのだが、どうだろうか?

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