Home > Archives >

やなせ氏の訃報によせて~アンパンマンの「愛」と「正義」(下)

 やなせさんの訃報のあとで、ネット上ではたくさんの生前の引用やインタビューを見ることができるようになった。

【「アンパンマン」やなせたかしさん、震災で引退撤回していた シネマトゥデイ 10月15日(火)】http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131015-00000053-flix-movi
【「生涯現役」だったやなせたかしさん 朝と昼は40回の腕立て】http://getnews.jp/archives/442159
【「いるだけで希望」「子供たちに同化」 後輩漫画家から感謝の声】
2013.10.16 10:06 [有名人の訃報] http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131016/ent13101610090005-n1.htm

 可笑しかったのは、やなせさんがなくなったときの「毎日小学生新聞」の見出し。

【やなせたかしさん:天国へ 「アンパンマン」の生みの親・漫画家 震災復興への思い、最後まで- 毎日jp(毎日新聞)】http://mainichi.jp/feature/maisho/news/20131017kei00s00s003000c.html

 左翼・毎日新聞のこども版にも関わらず、「亡くなる」ではなく、「天国」という言葉が使われるのは、はたして、この新聞ではよくあることなのだろうか?
 いずれにしても、そうした言葉を自然と使いたくなる人柄であったことは間違いない。
 こういう方の存在をみるにつけ、戦後、信仰を失ったといわれる日本ではあるが、声高に神をよばわずとも、その生き方で、自然と天国の実在を感じる人というのが数多く存在していて、この国の戦後の繁栄を長く支えてくれたように思う。
 こうした人の人生は、信仰のある人たちにとってもはげみとなり、
 「信仰者を称するならば、なおのこと、こうした先達に恥じない人生の成功を目指さなければならない」
 と、自らの人生を点検し、襟を正す気持ちになるだろう。

 ただ、一つだけ、この人の残した思想で、今後、日本を不幸にする方向に利用される恐れのある部分がある。
「愛」と「正義」についてだ。

【やなせたかし氏 日本人の正義とは困った人にパン差し出すこと2011.05.03 16:00】http://www.news-postseven.com/archives/20110503_18844.html

 『やなせ:「アンパンマン」を創作する際の僕の強い動機が、「正義とはなにか」ということです。正義とは実は簡単なことなのです。困っている人を助けること。ひもじい思いをしている人に、パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです。』
 『“正義”は立場によって変わる。でも困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。』(記事より)
 この主張はやなせさんのコメントに、繰り返し出てきていて、著作『アンパンマンの遺書』においては、もっと激しく、
 『正義のための戦いなんてどこにもないのだ。正義は或る日突然逆転する。正義は信じがたい逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること』
 というフレーズが出てくる。
反戦左翼の諸氏が大喜びで使いそうなフレーズだなあ、と思ったが、さっそく、

【<今週のワイドショー>アンパンマン・やなせたかし死去…戦争を憎み、強いばかりのヒーロー嫌った漫画哲学 2013/10/19 12:00】http://www.j-cast.com/tv/2013/10/19186623.html

 というような見出しの下で引用がなされている。

 しかし、この人の他のインタビューを読んでいくと、正義について、こうも言っている。
 「電車の中でたばこを吸っている人に注意したら、逆に殴られるかもしれない。それでも注意するのが正義ということ」
 【心に響く世界最弱のヒーロー アンパンマンの正義 ~やなせたかしさんに聞く2011年06月17日】http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20110527/1035910/?ST=life&n_cid=nbptrn_leaf_pan

 また、ほかのインタビューで、
 『正義とは、原発事故の時に原発を止めようと我が身の危険を顧みず突っ込んでいった東電の作業員さんたちの行為』
 というようなことも語っている。
 なにより、アニメ「アンパンマン」の作中では、アンパンマンがパンチやキックを使って、敵役を攻撃するシーンが毎回のように出てくるのだ。
 「アンパンチは傷害罪だろ」と毒づいた若者は、あれは歴とした「力による実力行使」だと言いたかったのだろう。

 確かに、このあたりは、「正義」の定義があいまいな気がする。
 やなせさんは、
 一つには「飢えた人に食べ物を差し出す」こと、と同時に、
 もう一つに、「世の中に害をなす行為を、我が身の危険を顧みずに止めようとする」こと、「悪と見えしものに実力行使をすること」……そのどれをも、ひとくくりに「正義」と言っている。
 後者は一般的に言う「正義」に間違いない。
 だが前者は、一般的には「正義」とは呼ばれない。
 それは「愛」という名で呼ばれている行為である。
 だから、やなせさんの「正義とは飢えて死にそうな人に食べ物を与えること」というのは、言い換えれば、
 「自分は『正義』という言葉に基づいて、過去、戦争に行き、自分だけでなく他人も辛い思いをするのを見た。
 だから、今後、自分は愛に生きる。
 与える愛をもって、自分の人生の最高の価値とする」
 という宣言であり、
 「正義と愛がぶつかることがあるならば、自分は迷いなく愛を取る」
 という、やなせたかしという詩人の中に一本通った「筋」ではなかったかと思うのだ。

 では、「正義」と「愛」の関係は。
 この二つは、どういう関係にあると捉えたらいいのだろうか。

 実は、その答えを、二十年以上前の、幸福の科学の研修でのできごとで、聞いたことがあるのだ。
 大川総裁を囲んで小さな会場での質疑応答のあとのこと。
 総裁が「(少しだけ時間があるから)短い質問を一つ(どうぞ)」と言った。
 とある人が手を上げ、一言で聞いた。
 「愛と正義の違い」
 総裁は一言で答えたという。
 「愛を妨げるものを、取り除くのが正義」、と。
 ……手持ちの書籍、テープ等で確認できないのだが、切れ味鋭い大川総裁の一言として、記憶しているものの一つである。

 では、一流の宗教家の提示した、この物差しを使って、「愛」と「正義」について、考えてみよう。
 さきほどの、
 「揺れる電車の車内で火のついたたばこを吸う人に注意する」
 「大きな事故を止めようと突っ込んでいく」
 それらは、周囲の人々が平穏な暮らしを営み、その中で育んでいる愛を傷つけようとするものに対し、敢然とその動きを止めようとする行為だ。
 ゆえに、「正義」と呼ばれる。

 また、バイキンマンに実力行使をするアンパンマンについても、やなせさんは
 「アンパンマンはバイキンマンを殺したりしないでしょう。こらしめるだけなんです」 と言っていた。
 これは、「正義」の名の元に振るわれる力は、基本的に敵を滅ぼしたり、征服したり屈従させたりするのが目的ではないという風にとれる。

それは、「正義」もまた、大きな意味での「愛」の一部であるからにほかならない。

 逆に言えば、そこに世界全体への「愛」の視点がなければ、いくら実力行使をするものが「我こそ正義」と言っても、それは「正義」たり得ないのだ。

 ちなみに、先ほどの、
 「アンパンマンは傷害罪だ」
 の若者の台詞には続きがある。彼は言う。
 「アンパンマンはバイキンマンを警察に突き出すべきだ。それが正しい行為だ」
 ……なるほど、一見すると理があるようにも思われる。
 彼は元・いじめられっ子だそうで、なるほど、いじめっ子というのはなぜか、自分たちを「正義」と称してえげつない行為をすることが多いから、こう言いたくなる気持ちはわかる。
 しかし、この発言は、自分の体験にこだわる余り、世界への洞察が抜けていはしまいか、という気がする。
 そもそもあの世界に警察はあるのか、あったとしても、おそらく、バイキンマンというのは、あの世界の警察機構を凌駕する脅威であって、それゆえに一種の「自衛軍」のようなアンパンマンチームが実力行使にかかっているのである。
 バイキンマンを殺したり、奴隷にするためではなく、彼らはこれ以上、その世界で育まれている愛を壊させないため、そして彼自身に悪を重ねさせないために、パンチを振るうのだ。
 誰かがそれをしなければ、あの世界の平穏、そして数多くの愛は、壊滅させられ、大勢の人々が苦しまなければならないからだ。

 ……さあ、どこかに似た現実があるのではないか、ということに、我々は気づく。
 現在、某国の息のかかったと思われる人々、そしてメディアが、「平和」を口にしてかまびすしい。彼らは、「反戦」を、そして、その理由に「愛」を声高に叫ぶかもしれない。
 だが、私たちはこう言い返すことができるだろう。
 「あなたがたは世界を読み違えてはいないだろうか」と。
 日本は世界から愛されている国である。
 その国では、世界の人々が瞠目するような、さまざまな技術や、高貴な精神が育まれている。それらはやがて、欧米の没落後、東西の世界を利する「愛」となるであろう。
 ……だが、いま、それらを、破壊しようとする力があり、「世界の警察」にも、国連軍にもそれを止められない事態が起きようとしている。
 その「愛を妨げる力」を諫め、侵略ではなく、殲滅でもなく、それらからこの国を敢然と守る力を身につけることは、少しも愛にもとる行為ではない。
 むしろ、愛を妨げようとするものを、とりのぞく行為、すなわち、『正義』であり、それこそが、大きな意味での「愛」ではないだろうか、と。
 それこそが、「アンパンマン」と「あんぱんまん」の意志を守ろうとする行為ではないか、と申し上げることができるように思うのだ。

 30年以上前の1冊の絵本から、話は遠く、そして重い現実にまで飛んできてしまった。

 ……最後に、やなせさんと、ファンの方々への謝辞と祈りをこめて。

 やなせさんはクリスチャンとのことだが、死後生には昏かったろう、と思われる。
 「詩とファンタジー」に載せられた遺作の詩、「天命」を読むと、「死が終わりであり、絶望であり、それが自分に迫っている」、という認識がはっきりと伝わってくる。
 生前の言葉を知る仕事仲間からは、「死にたくない。アニメのアンパンマンがこれから面白いところなんだ」と、言っていたとも。
 にも関わらず、このひとは、どのインタビューでもよく笑っている。
 「生きている限りは人の役に立ちたい」と言い続け、それを実践しようとしていた。
 「人を喜ばせる」ことを人生の使命と心得て生き、無償で多くの仕事を引き受けていたのだろう。
 だから、氏を知る人たちがこぞってこう言うのだ。

 【やなせたかしさん死去 声優の戸田恵子さん「先生こそアンパンマンそのものでした」2013.10.15 15:36】 http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131015/ent13101515370006-n1.htm

 戸田恵子さんだけでなく、氏とともに仕事をした人たちは、皆、「悲しくて力が入らない」「脱力を感じる」と言う。
 だが、再び、あの絵本の台詞を思い出していただきたい。

 「あんぱんまんは しんでしまったのでしょうか?」

 いいえ。
 やなせたかしさんというあんぱんまんは、今、天国のパン工場へ、神様から、次なる力を授かりに帰っただけにすぎない。
 その仕事は未だ、多く地上に行き続け、その仕事に触れたこどもたちが大人になっても、心の中で作用し続ける。
 ……たとえば、今から四十年前、アンパンマンを書く前から、やなせさんは、いつも気軽に、あったこともない子どもたちのためにサイン色紙を書くことがあった。その、丁寧にイラストが書き込まれた、自分の名前入りの色紙を、人づてに貰ったちいさな子どもの一人は、今、こうして追悼のブログを打っていたりするのだ。

 読者たちはいつも、無償の愛のため世界のあちこちで戦いを挑むときに、あの夕日の砂漠の遙か上空でひるがえるマントの音を、はっきりと耳にするに違いないのである。

 ……そして、やなせさん。
 あのときは、色紙をありがとうございました。

  • Comments (Close): 0
  • Trackbacks (Close): 0

Home > Archives >

Search
Feeds
Meta

Return to page top