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2014-06

一枚の法話冒頭テロップが示す 幸福の科学のイノベーション遺伝子

 つい最近、幸福の科学の動きの中で、 「イノベーションとはこういうことさ」という実例があったので、ひさしぶりに「観察日記」的な記事を更新させていただく。

 少し前、幸福の科学の大川総裁による霊言・法話映像に、小さな異変がおきていた。
 冒頭テロップの変化。
 これまでは、映像の冒頭に、レンタルビデオによくあるような仰々しい黒背景の禁止事項が入っていて、さらに、
 「総裁の法話内容は、単なる情報や知識にあらず、メールや個人のブログにて公開することを禁じる」
 という旨の一文が入っていた。
 それが最近、なくなって、一枚きりのすっきりした文章になっている。
 これに気づいたとき、思わず、ほほーっと、息が漏れた。
 ……幸福の科学は、まだもっと、強くなる。
 このささやかな変化に、それが如実に表れている、と思う。

 この、冒頭テロップに関する、ちょっとした「教団史」を振り返ってみる。
 ……まず、数年前には、総裁の法話ビデオの冒頭にはなんのテロップも流されなかった。
 この二重のテロップが入り始めたのは、手元の記録では2011年の11月ごろ。
 ある日突然、仰々しい警告文が2枚も、法話の冒頭に映し出された。その不穏感はかなりのものだった。
 その裏打ちをするように、総裁自ら、同、2011年10月16日の西広島支部精舎、「繁栄の神に近づけ 及び 質疑応答」にて、質疑応答の二問目で「ローテク」について触れ、「私の法話の内容は、単なる情報としてだけ扱われるのは不本意だ」という旨の発言をされた。
 (なお 大川総裁が以前、とある発言をされたあとで、意味ありげに真後ろに向かって流し目をされ、「これでいいかな?」といわんばかりに「ニヤリ」と笑ったように見える表情を浮かべられたことがあり、振り返って考えると、そのときの言葉は意味深な発言だったのだなとわかることがあった。勘違いかもしれないが、たしかこのときも、総裁が発言されたあとの表情の動きに、それとよく似た印象を受けたような覚えがある)

 一体何があった!? と会員さんはみんな思ったことだろう。
 そもそも、大川総裁という方は、「教えを伝える」ことに最も激しい情熱を燃やしておられる方であるというのが、会員さんの共通認識だった。
 実際、このテロップの出るつい数ヶ月前に、総裁は「自分の法話を無料でもいいから一人でも多くの人に見せたい気持ちがある、そうでないと地の果てまでは伝わらない」というようなニュアンスの言葉を、講演会の質疑応答で出されていたように思う。
 それが、いきなりこの発言である。
 会員さんたちはそこで、「これは何かあるのだろうな」と察し、ひとまず自粛することにした。

 後からふりかえってみると、原因はおそらくこれだ、という事件に思い当たる。
 この少し前に、幸福の科学のもと職員が、総裁前妻と組み、総裁の法話を流用したものを使って商売をしつつ、そこに某週刊誌が乗っかって幸福の科学叩きを仕掛けてきたのだ。
 「今度こそは」と意気込んだその週刊誌の動きが、あっさり総裁につぶされたのは記憶に新しい。元職員らと週刊誌の扇動に対し、一人の会員もついていかず、団体は感心するぐらいビクとも揺るがず、週刊誌の部数も増えなかったのだ。
 この二重テロップが流されはじめたのは、ちょうどその時期と一致する。
 おそらくは、その対抗措置という意味合いで、外部の人々による不本意な引用によって会員さんたちが傷つかぬように、このテロップが流されたと考えると納得がいく。

 さて、このたった2枚のテロップは、会員さんの活動を少なからず制限した、と思われる。
 なにせ、このテロップが出て以降、メールで総裁の法話の速報を友人に伝えることもできなければ、ブログで書籍の紹介をしようと思っても、総裁の書籍は、ほとんどが総裁の法話内容であるから、厳密にはブックレビューまでがこの「戒律」に抵触してしまうことになる。
 もちろん個人では禁止されても、公式では、書籍や法話の内容が紹介されるし、解説もある。
 しかし、どのジャンルによらず、個人のファンブログというもののおもしろさは、独創的な意見や、思い入れの激しさにある。
 一つの事がらを紹介するにしても、十人十色の自由な個性があり、人の数だけ見方がある。
 あっと驚く大胆な予見や推測も個人の自由だ。外れたところで誰が傷つくわけでもないならば、思いっきり面白い意見をかっとばせばよい。
 それは宗教団体においても変わらない。
 同じ法話を見ても、会員さんがたは、とんでもなく多様で、突拍子もなく面白い見方をしているものなのである。
 幸福の科学系のブログを読み書きすることの楽しさは、そうした「中央に上がってこない」意見を知ることだと思うのだが、それらが読めない語れないというのは、じつに寂しい話であった。
 さらに、そうしたブログの「とんでもない感想」を読んで、「そんなに面白いものならば」と本を買ったり、「その意見が本当かどうか」と法話を見に行ったりといったという効果も発生するわけだが、それらも一切、この二重テロップで封じられたのだ。
 教団の内部事情は一切うかがい知ることはできないが、「自由」が信条である教団が、一時的に、一部の自由を封じたのだ。敵対勢力の力を封じることはできただろうが、活動的に、明らかにマイナスの影響が出ていたのではないかと感じられる。

 その自粛令から2年弱。
 2013年10月の法話の中で、総裁から「あの冒頭テロップはいかがなものか」という意志表明があった。
 『伊勢丹流 「できる営業マン7つの条件」』の後半においてのことである。
  その総裁の発言後、半年。
  どういった経緯が教団の中であったのかはわからない。
  そして、ある日突然、あたかも、出現したときと同様に、二重テロップが消滅したのは、今年の4月のことであった。

  上述した経緯をふまえて、そのことを知った第一印象は? と聞かれたら、
  「すごいですね」
 の一言につきる。
  たとえば、二千数百年前の仏陀サンガで、戒律ができるのは随犯随制、すなわち、悪いことが発覚したら戒律をつくる、というスタイルであった、という。
 しかし、ひとたびもうけた戒律を、後から破棄したというケースはあまり聞いたことがない。
 これは、宗教に限らず、ふつうの組織においても同じではないかと思う。
 発足したときには柔軟だった組織が、年数を経て巨大化していくうちに、中央集権的に、自由を失い、機動性を失い、硬直化していく。
 ひとたび硬直化した組織を元に戻すことは、極めて難しい。
 組織が「若返り」できるのは、中興の祖が出てきたときぐらいであり、若返るためには大変な「抵抗勢力」との戦いが待っている。
 ところが。
 この団体は、数千人の職員を抱え、実質日本一で、いつ守りに入ってもおかしくない規模でありながら、あっさりと、硬直化の力学に逆らうかのようなイノベーションをかけて、ばっさりと縛りを一つ、破棄してしまった。
 おそらく、この2年間の週刊誌等との戦いを経て、この団体は「在野でいくらレビューを書いても、組織はびくともしませんよ」という強さを身につけた、その余裕の現れであろう、と思う。少なくとも、今は、テロップで縛りをかけて、会員さんを守らなければならない状況を脱したと言うことだ。
 この大団体は、その身につけた強さをもって、もっと自由に、寛容さを増す方向へと動いたのである。
 一枚のテロップの変化は、ちいさなイノベーションに過ぎない。
 しかし、その奥にあるのは、この団体がまだまだ弾力を失わず、若返り、さらに花めく未来を思わせる潜在力そのものではないだろうか。

 ……というわけで、拙ブログも、ぼちぼちと大川総裁の法話・霊言の感想レビューを再開したく存じます。

 とはいっても、そもそもがボケ防止のために書き始めたブログなので、長い自粛の間にすっかりレビューの書き方を忘れ果ててしまい、加えて遅筆癖が定着してしまいましたので、リハビリを兼ねてゆっくりとレビューをはじめようかと思案中です。 

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