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2018-05
覚え書き「さらば青春、されど青春」感想(3)タイトルの意味を、「ある解釈」でとらえたとき、人は、老いとは無縁の境涯を知る
- 2018-05-24 (木)
- 幸福の科学系映画感想
(3)タイトルの意味を、「ある解釈」でとらえたとき、人は、老いとは無縁の境涯を知る
タイトルの「さらば青春、されど青春」。
タイトルの短い字句には「青春」が2回出てくる。
前半の「さらば青春」という字句は、小椋佳氏の曲のタイトルとして有名であり、以降、70年代~80年代ころにかけて、さまざまな場所で実によく使われたフレーズであったと記憶している。(その返礼なのか、劇中には小椋佳氏の「俺の汽車」というマイナーな名曲が、レコードから流れている)
だが、問題なのはこの後半、「されど青春」という一語だ。
この字句はさまざまに解釈できる。
おそらくは、主人公の開祖が、自らの若き時代をふりかえって大切にいつくしむ言葉にも聞こえるが、その真意は測りがたく、あたかも映画の主人公のカップルの行く末と同様、謎(リドル)といえば謎だ。
けれど、複数の解釈を許すのが名作の条件でもある。
ここで、本来の意味と、まったく異なる解釈をお許しいただけるなら、個人的には、視聴後に流れる同名の歌曲の最後の最後の一句で、意外にな風景が見えてきた。そこに現れるのは2つの異なる「青春」である。
1つ目の「青春」とは、おそらく人生の最も輝かしい時節であり、それに象徴される人生の喜びのことだ。
映画の最後、主人公はそれに別れを告げる。
単に年をとったからではない。
「全てのものを犠牲にしても」なさねばならない招命によってである。
若者には「試し」がおとずれ、荒野にてイエスを試みにあわせ、菩提樹下で釈迦を試しがごとき葛藤の果てに、その「青春」に別れを告げる。
だが、次の瞬間、そのひとの前に広がった世界は何だろうか。
ラストシーン、牛込公会堂での講演会。降り注ぐ光の中で、演壇に立ち、彼を求める大勢の前に悟りたる人が立ち、主題歌は最後に歌う。「ぼくの夢はまだ、終わらない」と。
悟りたる人の夢とはなにか。言うまでもない。世界のすべてに、光をもたらすことだ。生きとし生けるものに、悟りという名の幸いをもたらすことだ。
そしてその夢のために、真理のためにすべてを捨てて、我が身を多くの人の贄にせんと決意し、動き出したときに、その人に訪れるのは、実は、永遠に輝かしい、2つ目の「青春」だったのではないか。
その青春は果てることがない。
その青春は褪せることがない。
その青春は、永遠の別名である。
かつてイエスが、「我を信ずる者は永遠の生命を得る」、といった、その美しい生命のイデア、そのものである。
信仰を捨てぬ限り、その青春は尽きることがない。
この境涯を垣間見たあとにふりかえれば、「肉体の青春」は、実は「永遠の青春」の模倣(ミメーシス)にすぎない。「肉体の青春」は、神が「本来の生命の輝きとはなにか」を想起させるため、人生の一時期、人に与えた「気づきのよすが」でしかなかったのではないかと思い至る。
若き悟りびとは、「さらば、わが青春」とつぶやいた。
けれど、主題歌の最後を聞き終わったあとに、続きの言葉が去来する。
「されど我、永遠の青春を征く」、と。
この青春に、年齢は関係ない。
性別は関係ない。
国籍は関係ない。
そして、この道は、とりたてて大きな使命のない自分、先師の背を見て、その道を覚束なげに辿るだけの自分にも、同じく拓ける「青春」の道なのではないか。
この考察の、真偽のほどはわからない。だが、どうぞ劇場へ、と申し上げたい。
永遠の青春の欠片が、そこにあるかもしれないから。
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